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一番町交差点から麹町一丁目と二丁目の間を上る坂。
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湾曲・勾配はあまりなく、直線的で長い坂道になります。
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靖国神社方面から向えば御厨谷坂・袖摺坂から続く坂道。
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坂下は袖摺坂下と繋がっています。
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この坂道を挟んでほぼ向き合って2つの永井姓の武家屋敷(永井奥之助・永井勘九郎)があったことから永井坂の名が残っています。
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坂の途中に一番町の町名由来板があり、近辺の古地図もあるのが嬉しいところです。
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『江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に大番組に属する旗本たちを住まわせました。ここから「番町」という地名が生まれ、この界隈には多くの武家屋敷がありました。明治になると、中央官庁や皇居に近接したこの地には、政府役人の官舎や華族の屋敷が並び、山県有朋の邸宅もありました。明治5年(1872)、英国大使館(当時は公使館)がこの地に移ってきます。維新の志士たちと深い交流をもち、のちに駐日英国公使として日英同盟に尽力したアーネスト・サトウも、ここで多くの年月を過ごしました。英国大使館の裏手には、明治33年(1900)、津田梅子が女性の自立をめざした英語学校・女子英学塾を創立しました。これが現在の津田塾大学の前身です。
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文化人たちにも一番町は愛されていました。小説家、劇作家として名高く、画家でもあった武者小路実篤はこの地に生まれ、結婚してからもしばらくその屋敷に住んでいました。「荒城の月」「花」などの歌曲で知られる作曲家の滝廉太郎や、「からたちの花」「赤とんぼ」などを作曲し、西洋音楽の普及と発展に努めた山田耕筰もまた一番町の住人です。昭和32年(1957)に制定された「千代田区歌」は、佐藤春夫が作詞、山田耕筰が作曲したもので、英国大使館前に区歌の碑が残されています。昭和13年(1938)、かつての五番町と上二番町、元園町一丁目の一部が一緒になって、現在の一番町となりました。新たな文化を積極的に取り入れ、近代思想の礎を築いた町、それが一番町なのです。』
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標柱より。
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『この坂を永井坂といいます。坂下一帯は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。嘉永4年(1851)の「東都番町大絵図」という切絵図をみますと永井勘九郎・永井奥之助という旗本が道をはさんで、ちょうどむかいあっているかのようにみえます。』
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