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小泊村字権現崎国有地136林班チ小班。鎮座地は日本海に横たわる巨大な獅子名岬として世に知られている海抜229mの断崖絶壁権現崎(小泊岬)頂上。
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御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、少名彦神。例祭日5月25日。
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菅江真澄が権現崎に立つ飛龍権現という神の祠について触れていますね…大嶋や小島見るめのいと涼し磯松風の吹となけれと…。
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当初は飛龍大権現を祀る飛龍宮で、山全体が修験者の聖地ともいわれました。
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脇侍には航海の神として木造の徐福像(高さ6.5cm、一木造り)が祀られます。明治3年に神仏分離によって尾崎神社に改称。徐福像も少名彦神として祀るようになります。
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創建は不詳ですが、大同2年(807)、明暦2年(1656)、宝暦9年(1759)などの説があります。恐らく明暦2年創建、宝暦9年再建じゃないかな。ちなみに青森県神社庁によりますと、「延宝8年(1680)起源、記録なし。宝暦9年(1759)尾崎大明神と称す。」とありました。
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また、由緒として「獅子のように突出した権現崎の頂上に鎮座、人皇7代孝霊天皇72年秦の徐福、東日流の尾崎(権現崎)漂着せんが、後ち国に帰りて死せり。其の追慕のため観世音1体、徐福の霊を勧請し、熊野大権現として祭りしものと伝えられる。後ち飛龍大権現と改む。天保2年8月17日藩主信順公御参詣遊ばされ、御盛荘金百疋を捧呈せり。」とあります。例大祭は新暦8月16日。社殿の中で大漁祈願祭が行われ神楽が奉納されます。奉納神楽のクライマックス天王舞では、大漁と航行安全の願いを込めて神官が社殿の天井に5本の矢を放ち、東西南北及び中央にすべての矢が刺さると縁起が良いとされます。
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明和元年(1764)の記録(御神楽料帳小野若狭とある紙背文書)によりますと、「小泊村飛龍権現末社稲荷宮 尾崎明神 弁天宮 右三社再興ニ付 御棟札申出則 冣勝院江申上候以上 八月十三日」とあり尾崎明神が再建されたことがわかります。また、尾崎家文書によりますと、当社の由来を次のように記しています。「一飛龍大権現 草割不知(別人の筆にて寛永10年とあり)享保十二丁未年八月葺かへいたし それより宝暦四甲戌年葺替致それより安永七戊戌年八月葺かへ御遷宮 同年号庚子年四月十七日執行寛政十一未年御拝殿建立 此時代庄屋与兵衛其節垂木四拾本 寺町之婆嚊等之寄進尤代銭拾肋匁 それより享和元年■ノ十一月建直 右木柄之儀濱観音■天保二卯ノ年八月十七日 屋形様御参詣被遊候ニ付 右之趣御目付ゟ御代官被仰付 則御代官ゟ拙子申通候様 其時之御最花 板奉書弐枚ニ而金百疋包尤小子出張致候折節御頭御出ニ而(被為)様子得与承候 天保十五辰ノ年 一尾崎宮零落ニ及候故 御神躰并御宮共修覆いたし、尤其時之割合ハ小泊下前船頭中并漁師中 同年八月御遷宮いたし」。これによりますと、尾崎神社は飛龍大権現と称し、その草創は不明。何度かにわたり葺き替えをしており、その時に御神体を他へ遷したといいます。寛政11年に拝殿を建立しましたが、代庄屋や寺町の女たちが物品金銭を寄進し、享和元年十一月には建て直しをしています。その時に材木を浜観音堂のものを再利用したのかも知れません。天保2年には殿様が参詣にくるとのことで、目付から代官へ、そして拙子へ通知あり。この時、殿様から100疋の御最花(玉串料)を頂いています。天保15年には宮も零落したので、御神体・御宮を修繕。小泊下前の船頭一同や、漁師たちがその費用を出し、修繕できたところで御神体を納めたといいます。明和元年再興については触れられず、最勝院から頂いた棟札については残っているのか不明。昭和43年神社新築。
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参拝するのは登山並みに大変ですし、社殿もボロボロだけど、現在も漁民の崇敬は非常に篤い神社なのです。
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『青森の伝説』より…『海に突き出た権現崎にある尾崎神社には、熊野権現のほかに、古代中国の秦の徐福を祭るという。徐福は、わが国孝霊天皇の73年に、中国から不老不死の薬を求めて渡来したといわれる。権現崎の下に、千丈澗という広い船泊まり場がある。昔、丹後の国(京都府北部)の船が、ここに卵をいっぱい積んではいって来た。尾崎の神様は卵が嫌いなので罰があった。神様の「出ろ、出ろ」という声が他の船にはよく聞こえたので、急いで船を出した。しかし丹後船には聞こえなかった。そこへ岩が転げ落ちて来て、船は沈んでしまった。近年までその帆柱が海中に見えていたという。』
※権現崎については『津軽ふるさと散歩』(小館衷三)にも記述があります。
青森県神社庁より…『延寶八年起源、記録なし。寶暦九年尾崎大明神と称す。安政二年尾崎明神一宇。定例八月十四日。明治三年神佛混淆神社調帳記録なし。明治三年尾崎神社と改む。日本海に獅子のように突出した権現崎の頂上に鎮座、人皇七代孝霊天皇七十二年秦の徐福、東日流の尾崎漂着せんが、後ち国に帰りて死せり。其の追慕のため観世音一体、徐福の霊を勧請し、熊野大権現として祭りしものと伝えられる。後ち飛龍大権現と改む。天保二年八月十七日藩主信公御参詣遊ばされ、御盛荘金百疋を捧呈せり。』
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上記と一部被りますが、その他資料では、8世紀に建設された平城京の鬼門に当たるので、飛龍大権現を御祭神として飛龍神社が置かれたと伝えます。尾崎義男氏蔵の古文書によりますと、同社は大同2年建立とあります。しかしながら、平城帝時代は東北北半部は蝦夷人の世界であり、中央政府の支配の及ばない地域であったことから、首都の鬼門を封ずるということいは合点がいかず、むしろ徐福伝承含めて山岳修験による熊野信仰と関連深いものです。東日流外三郡誌の寛政5年の記録には尾崎神社と称する社、元暦元年(1184)建立とありますが、神号尾崎神社と称するのは明治初年。徐福伝承については徐福本人が渡来定着、もしくは渡来したが帰国し、後世(江戸時代正徳初年頃)に子孫が観音像と徐福像をもって渡来し下前に定着したなど様々な説があります。徐福像は脇侍として祀られてきたと伝えられます。明治12年弘前誓願寺の調査(太政官令による調査官)によりますと、伊邪那岐命、伊邪那美命の二尊と応神天皇、徐福が脇士として祀られてあると記録。弘前市の熊野奥照神社本殿との関連を考察すると、熊野奥照神社本殿は崇神天皇時代(631)に小泊に創建され、安倍比羅夫や坂上田村麻呂などの蝦夷征伐には戦勝祈願所になったとされ、延暦7年に小泊から弘前へと移されたと伝えられます。元禄15年正月、熊野神社第42代当神主記の陸奥国高岡、熊野神社鎮座伝記によりますと、「人皇五十代、桓武天皇延暦七戊辰年、比羅夫ノ子孫比羅蛾賀州王、又二津石ト号ス、是神主ノ遠祖ナリ。神輿ヲ奉ジテ奥尾崎ヨリ扇野庄ニ移シ奉ル是則今ノ高岡ナリ、或云奥尾崎ヨリ斧杭ニ移シ池ノ中島ニ奉安置云々、同二十一年壬午年四月、天皇新ニ神殿ヲ造立シテ高岡神社ト称ス…」とあります。※二津石は高岡の古名(高岡は弘前の旧名)。尾崎は現在の小泊。扇野庄は弘前市堀越。斧杭は現在の弘前市堅田。飛龍大権現修理記録…「年暦二百六十五ナリ。寛永十年草割不知享保十二丁未年八月葺かへ御遷宮同年号庚子年四月十七日執行寛政十一未年御拝殿建立此時代庄屋与兵衛其時垂木四拾本寺町之婆嬶等之寄進尤代銭拾六匁それより享和元年申ノ十一月建直右木柄之儀浜観音■■■天保二卯ノ年八月十七日尾形様御参詣被遊候ニ付右之趣御目付ヨリ御代官被仰付則御代官ヨリ拙子申通候様其時之御最花(奉献御最花百匹以上)板奉書弐枚ニ而金百疋包尤小子出張致し折節御頭御出被爲様子得与承候」※昭和43年神社新築
以下、尾崎神社と尾崎氏の祖先についての資料より。『第17代尾崎貞夫宮司の話では、尾崎神社の創立年代は不詳だが、平安時代の大同2年または元暦元年といわれ、阿部一族を頼って紀州から来た尾崎一族が、この地に定住し熊野大権現を祀ったという言い伝えがある。往古から山岳修験による熊野信仰と関連があり、飛龍大権現を祭神、脇士に中国から不老不死の仙薬を求めて漂着したという徐福を祀り、飛龍宮と称したといわれている。「津軽の神社一覧」には明暦二年尾崎明神建立とある。また「津軽の神社縁起」には宝暦九年尾崎大明神とある。また、寛政8年6月23日から27日の5日間、小泊、下前に滞在している紀行家の菅江真澄は「津軽半島小泊の権現崎の尾崎神社の御神体も、秦の徐福の肖像だといわれている。」と記している。尾崎備前守伊勢大夫豊隆は、文禄年間、豊臣秀吉に会い、その後紀州那智に行って那智大社の宮司となった。慶長19年津軽へ帰って、津軽南部尾崎村(平川市)の寛昌寺に居った。そして隣村広船に神官養成所をつくり、為信が城主や家老らの幹部教育を実施s、各地に土地をあたえて神社を建立した。尾崎氏の先祖はそこの講師となり、津軽五代の館、藤原ノ八代麻呂(津軽美作守信牧)の娘みつと結婚したという(「日本に生きる徐福の伝承」山本紀綱)。尾崎の先祖は尾崎別当として熊野大社からも重んじられたといわれる。その尾崎の子孫が今日まで神官を継承し徐福像を保存している。』
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由緒案内。
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階段が崩れている展望台・東屋。
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植樹記念碑。
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句碑『大嶋に雲起こりけり夏の昼 鳴月』※鳴月=対馬藤重
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