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津賀野にある便心寺。入口は住所的に旧羽州街道沿いで弘前市百田。弘前市から青森市へ向かう国道7号の東側で江戸期の津軽野村。文化14年に津賀野村と改称されたと伝えますが、天明5年にこの地を訪れた菅江真澄は「川ひとつわたりて百田邑を過て、名をよぶ津軽野に出たり。いまはつがのといひ、村あり、つが野邑といへり」と記しています。
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本尊は釈迦如来。万蔵寺末寺。貞享4年検地水帳によりますと、伊勢大夫抱えの観音堂があり、また御道書明細によりますと浄土宗の庵及び三ヶ月の加茂宮と神明宮(両宮とも社司は藤井大和)があります。先の浄土宗の庵が便心寺であり、明治初年には浄土宗誓願寺末庵便心庵となっており、唐糸御前の遠縁にあたる便心という尼僧が藤崎の対岸に結んだ庵と伝え、また、国誌によりますと宝永元年(1704)浪岡村の産行円坊の創建。
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大同年間(806-810)坂上田村麻呂が開基したという寺にあった木造十一面観音、元禄4年(1691)に開基された寺にあり明治4年に当寺に移ったという三日月不動、更には宝暦8年(1758)にこの寺に移したという金剛界大日大石像と胎蔵界阿弥陀大石像がある伝え、金剛界大日大石像と胎蔵界阿弥陀大石像の両大石像は現在も便心寺本堂内の本尊左右に残されています。恐山の修験が赤倉で彫った大日尊は、水をかけると顔が変わることから「水掛け大日様」として尊信を集めています。
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台座銘と寺伝によりますと、宝暦8年(1758)南部三戸生まれの正誉源海大徳が、両親の菩提を弔うため岩木山に奉納しようとした像。源海は恐山の僧で岩木山赤倉沢において彫像を始めたましたが、藩から不許可となり村民の協力を得て当庵に移したと伝えます。その後石仏を受取りに来ましたが石仏が動かなかったため、ここに安置することになったそう。
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続きまして、弘前市津賀野と大久保若松の境にある羽黒神社の紹介。
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わかりにくい場所です。住所的にも微妙な位置。便心寺の裏手に回り、平川の土手沿いを進めばあります。つり電線注意が目印(笑)
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この辺りには平川を挟んで対岸の藤崎村との間に渡船場がありありました。
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畑の中にポツンと鎮座。
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シンプルな社殿と鳥居が一つ。
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社殿内の本殿上部に龍と龍に乗った羽黒大神の絵。昭和35年の紀年銘で津賀野百田老婦人一同とありました。本殿横には石も祀られていました。
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文政5壬午年(1822)の猿田彦大神。
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平川の土手から雲に頭を隠した岩木山と便心寺の屋根が重なって見えました。
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