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勅祭社で旧別格官幣社。
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幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり嘉永6年のペリー来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を英霊と称して祀り、その数は246万6千余柱。
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また、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、戦争犯罪人として処刑された方々などの神霊も祀られています。多くの神霊が一律平等に祀られているのは靖国神社の目的が唯一、国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰することにあるから。
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社号標。
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一の鳥居は大正10年(1921)に日本一の大鳥居として誕生(50周年記念)。その後損傷が激しく、昭和18年には戦時用材として撤去され、現在の鳥居は戦友の奉納により昭和49年に再建。高さは25m、幅34.13m。
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昭和7年建造の石鳥居。
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狛犬。
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大村益次郎銅像。
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『大村益次郎は文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年、第二次長州征伐の折に、石州口の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改める事を主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869)9月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年11月5日大阪にて歿した。46歳。明治2年6月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日、この地を視察したことも記録に見え、靖國神社創建者としての功績は大きく、明治15年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。大熊氏廣は明治9年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、同15年に首席で卒業する。卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻製作に従事、明治18年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。後に大熊は、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王などの彫像を制作し、文部省美術展覧会審査委員を務めた。』
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大きな石燈籠。
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明治20年建造二の鳥居。
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青銅製としては日本一の大きさ。
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大手水舎。
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神門。
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斎館・社務所。
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能楽堂。
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平成18年建造の中門鳥居。
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靖国神社の起源は明治2年(1869)6月29日に建てられた東京招魂社に遡ります。明治天皇は国家のために一命を捧げられた多くの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため、この地に招魂社を創建。
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明治12年(1879)6月4日に社号が靖国神社と改められて別格官幣社に列せられました。
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ホームページもありますので、詳細はそちらをご覧下さい。
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南門。
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南門の手水舎と狛犬。
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元宮・鎮霊社。元宮は明治維新の先駆けとなって斃れた志士の霊を祀るために福羽美静らが京都に建てた招魂社の先駆けで昭和6年に靖国神社に奉納。鎮霊社は戦争や事変で亡くなり、靖国神社に合祀されない国内及び諸外国の人々を慰霊するために昭和40年に建てられました。
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神道無念流練兵館跡。
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『この練兵館は、神道無念流の刺客斉藤弥九郎により、それまで俎橋付近にあった練兵館が天保9年(1838)の火事で類焼したため、この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。練兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれている。』
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参集殿。
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戦歿馬慰霊像・鳩魂塔・軍犬慰霊像。
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パール博士顕彰碑。極東国際軍事裁判でインド代表判事を務め、唯一被告団全員を無罪とする意見書を提出した方。
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鋼製三十封度船用加農砲。
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『安政元年(1854)、伊豆下田港外に碇泊中の露国軍艦デイアナ号は、大地震の津波により座礁した。乗組員は幕府に請い、スクーナー船二隻を造り、之に乗じて帰国した。後露国政府はデイアナ号の備砲五十二門を幕府に贈り、その厚誼を謝した。本砲はその一門である。』
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特攻勇士の像と特攻勇士を讃える碑。
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護国海防艦。
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母の像。
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遊就館。
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明治15年(1882)開館。最初で最古の軍事博物館。
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鯱がありました。
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遺品などを収蔵、展示する施設で、明治15年に開館しました。
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八九式十五糎加農。
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零式艦上戦闘機五二型。
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靖国会館。
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到着殿。
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招魂斎庭跡。
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啓照館。
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横には相撲場があります。
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行雲亭・靖泉亭・洗心亭・神池庭園。
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『この庭園は明治時代を代表する名園で、維新直後の明治5年頃より着手されたものです。滝石組は明治11年(1878)に完成しており、当時四谷から玉川上水を引いていたことも分かってきました。その後、明治37年(1904)に2つの中島も作られ、現在の姿が完成しました。茶席「靖泉亭」「洗心亭」は昭和30年代に建てられています。主景である滝石組は、深山幽谷を思わせる一大渓谷美で、数ある日本庭園の中でも有数の名作といえます。その左上には獅子頭を思わせる奇石があって、左手の築山が獅子の築山とされているのは、古庭園中でも大変珍しいことです。中島東部にある切石橋は6mを越える貴重な作で、また中央の阿波青石橋は神池の中心的な景となっています。大島南部にある石浜は、鬼怒川石を用いて復元されたもので、美しい水景が見られます。特に池泉を引き立てているのが、南部中央にある岩島(蓬莱岩島)で、どの角度から見ても美しい八方正面と遠近法の造形美を見せています。西南部の入江もよく保存されておりますが、新たにその奥に隠れ滝を設け新鮮な水を供給しています。』
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これは…
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立派な喫煙所(笑)
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