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亀戸天神社の境内には100基近い数の石碑等があります。江東区登録文化財もいっぱい。
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ってことで、さすがにすべてを紹介・説明することはできません。
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興味のある方は時間に余裕をもって現地へ(笑)
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五歳の菅公。
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「昭和52年の御神忌1075年大祭記念として奉納される。台座に道真公の5歳の時庭前の紅梅を詠まれた和歌を刻す。」
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『美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある』
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鷽の碑。
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「筑前の太宰府天満宮御やしろに毎年正月7日うそかへと云う事あり四方の里人木の枝其の他のものをもてうそとりの形をつくり持きたり神前に於て互にとりかへて其の年の吉兆を招くことになん是や今迄のあしきもうそとなり吉に鳥かへんとの心にてうそがへといふ元より此おん神の託によりて始れり直き心をもてすれば誠の道に叶うべしここに亀戸天神社はつくしのうつしなれば文政3年この事を始めて毎年正月24日5日うそ鳥の形をつくり境内に於てうらしむれば信心の人々かひ求めて神前にあると鳥かへなばかけまくも賢き神の御心にもかなひ開運出世幸福を得べきになり」
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歌川豊國の碑。
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『幹はみな老を忘れて梅の花 楳堂』
「二世、三世ノ肖像ヲ田鶴年鐫ガ鐫刻ス 合企 豊原國周 豊原國貞」
「明治26年11月 三世香朝婁樓國貞の発起により市川団十郎、尾上菊五郎等や錦絵問屋、浮世絵師の補助によって建立されました。」
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河却圭三之碑。
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筆塚。
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『筆塚は、書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を納めたものです。当宮では、「宮居に遠き人之為に、吉書初め(書初め)に可用筆を文政4年(1821)より毎年12月朔日から晦日迄出す」と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与しています。特に、天神さまの御忌日 2月25日には神苑の梅の木で調製した筆を授与いたします。筆塚祭(書道上達祈願祭)毎年7月25日執行。廃筆、清書の焼納(おたきあげ)を行います。』
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弘前舊藩士龍岬藤林君之碑。東奥義塾から東京の師範学校に在学。墓地は京徳寺。
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琴字燈籠。
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琴柱に似ているために一般的には琴柱燈籠と言いますが、亀戸天神社では学問にちなみ字という漢字をあてます。
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清水誠の頌碑(燐寸塚)。
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「国産マッチの創始者清水誠の頌。人類は、原始以来火を自由に使うことによって、今日の文明を築いてきた。日本の近代文明もまた、西欧からマッチの製法を輸入し、これを改良工夫した先人の努力によって、飛躍的に発展したのである。その創始の時が今から丁度100年前であり、その創始者が清水誠氏である。清水氏は弘化2年(1845年)金沢に生まれ、明治3年藩命を受けてフランスに留学し、パリ工芸大学に学んだ。専攻は造船学であったが、明治7年たまたま在仏中の宮内次官吉井友実氏の勧めによって、マッチの製造を決意して、帰朝した。翌8年(1875年)4月には、本務の造船技師のかたわら、東京三田の仮工場で、早くもマッチの製造に着手した。明治9年9月本所柳原町に工場を新設して新燧社を興し、同12月には、官職をやめて、その経営に没頭した。翌明治10年9月には、初めて国産マッチを上海に輸出し、好評を博した。明治11年7月再びフランスに渡り、ドイツ、スウェーデンのマッチ事業を視察して帰り、以来ますますその改良に苦心し増産につとめた。その後打ち続く不況に見舞われ、遂に21年には業界から隠退して郷里金沢に帰った。しかし、その後もなおマッチ製造機の改良に情熱を燃やし、29年新鋭機の特許をとり翌明治30年大阪に出て、その製造に従事した。明治32年(1899年)2月8日病をえて没した。時に年54才である。大正4年政府はその功績を賞して従五位を追贈した。なお没後間もなく当亀戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てられたが今次の戦災によって破損したままになっていた。今年あたかも国産マッチ創始100年に当り、業界の有志によって新しく再建されることになった。ここにその由来を誌し先人の功をたたえ、一文を草して頌辞とする。昭和50年5月12日」
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右下に見える碑は福山碧翠翁記念碑。
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菅公一千年祭碑。
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文房至宝碑。
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「中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた。今や文房具はOA機器にいたる?その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった11月3日(文化の日)を文具の日と定め平成2年11月12日天皇陛下御即位を記念して全国業者相寄り東宰府亀戸天満宮の境内に文房至宝の碑を建立する」
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塩原太助奉納石灯籠。
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「天明元辛丑年(1781)8月17日。太助は、本所相生町(墨田区両国)で薪炭商を営み、辛苦を重ね豪商をなした。」
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くんきょ先生之碑。
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累卵塔。累卵とは卵を積み重ねることで、崩れやすく、極めて危険な状態を例えた言葉で、明治20年3月に明治天皇の主治医を務めた千葉愛石が、天神様を崇敬するとともに人命の危うき事を示そうとして献納。裏面には勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の名を刻みます。
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河野寅吉彰徳碑。
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梅松両社落成記念三翁句碑。
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正面=「面のまゆむすひあぐるや松花」三祖浪華旧徳椎木才麿
左側面=「香の風やあるしかしこしむめの花」二祖難波松寿軒井原西鶴
右側面=「神松や千とせちかくもわかみとり」七世玉池谷素外
「文化8年(1811)に御本社前の紅梅殿と老松社の社が再建された記念に建立されたものです。この両社とも、先の戦火に羅り焼失いたしましたが、紅梅殿は昭和62年の当宮御鎮座325年に当りこれが記念に心宇池の西の畔に再興されました。」
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中江兆民翁之碑。
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「楷(別名トネリバハセノキ・爛心木)。中国原産のウルシ科の落葉高木で、曲阜の孔子廟に弟子の子貢が自ら植えたと伝わり、幹も枝もまっすぐのびるのが特長である。大正4年白沢保美博士が、その種子を中国から持ちかえり苗に育てたのが、わが国に渡来した初めといわれる。楷は、雌雄異株である上、各所に分散しているために、また花が咲くまでに30年余要するということから日本では種子を得ることができなかった。この楷は、昭和45年秋金沢文庫(神奈川県)にある雌木から人工交配により得た種子が、翌年春発芽したものである。」
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和魂漢才碑。
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御鎮座参百弐拾年五年祭記念之碑。
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八百萬神碑(男谷静斎書)。
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花仙堂筆塚。
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菅公一千年祭記念碑。
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明楽斎修筆碑。
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鮮斎永濯碑。
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日時計(八町睦)。
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忠魂碑。
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昭和大典記念庭園改修碑。
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菅廟種梅碑(明治35年在銘)。
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その他諸々ー!!(笑)
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