寛政8年(1796)7月に菅江真澄が訪れています。
『外浜奇勝』には「森田の村ざかいにきて、石をならべて坂をつくってあるところをはるばるとのぼって、薬師仏をまつった堂に行った。むかし、探題某という人が大きな石を背負ってきて、仏として崇めたのがはじめであろうという。のぼりつめて、むらだつ木々の間から遠近の眺めがよいので、あたりをまわってみた。堂のうしろの方に鳥居があり、ここから十腰内の観音菩薩へ詣でる道があるので鳥居がたっているのだという。」とあります。
現在の参道の東側の杉は文化9年(1812)に9代藩主寧親が木造御仮屋より参詣祈願の際、下賜された杉苗を同14年に植えたものと伝えます。
御祭神は大己貴命、少彦名命。
慶長3年(1598)、丹代森右衛門がこの地に薬師様を勧請。
正保2年(1645)、薬師如来を祀って薬師堂に。
元文元年(1736)検地帳に「薬師堂地 六間四間弐拾四歩 堂建有之 同人抱」とあり、他に宮本左近の社司屋敷10歩、同人抱えの下々畑1畝26歩がありました。
明治初年には相殿として稲荷神・武甕槌神・八幡宮があり、明治4年に神仏分離によって久須志神社と改称。
明治6年4月、村社。
本殿。
社殿にあった由緒(薬師様の縁起)。
『(祭神)大己貴尊敬・少彦名命。現在の地に崇敬するように成たの慶長15年からです。春祭4月8日例大祭7月8日秋祭11月8日。この地に崇敬された時は右の通りですが或夜枕神が立って赤わらびの奥山より持って来てくれと依頼を受けたので朝早く行って見ましたら山の中に大石が立っていたのです。その石を背負って薬師流まで来たので一休みしようと思って休んだところその石が動かなくなったのでその地に祭ったそうです。枕神に命ぜられ人 丹代盛右エ門 時慶長3年 35人力あったと称される。平成元年12月吉日15代目丹代盛作、16代目丹代彦男、17代目丹代幸寿、盛作次男丹代秀太郎、秀太郎妻丹代タマキ、盛作娘山谷春江。』
菅江真澄は、堂のうしろの方に鳥居があり巌鬼山神社へ詣でる道があると記しています。堂の後ろには確かに鳥居がありましたが大石神社の鳥居。かつてはこの付近に参道もあったのでしょう。
屋根から色々生えちゃってる。
神額には昭和11年旧7月10日と見えます。
大石神社社殿内。
末社の稲荷神社。
かなり荒廃しています。
こちらの祠には…
石と大蛇。竜神様です。
コンクリの祠。
馬頭観音堂でした。
丹代彦男氏が旧鎮座地の山(袖流の山)より、昭和43年9月14日に遷座させ、同22日に新鎮座地にて祭事。
周囲には馬頭観音石碑等。
こちらの祠は…
何だろうね。
猿田彦大神。
稲荷の末社群。
荒れています。
保食神。
石碑も色々ありました。
幸神や月夜見尊など。
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