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大仏殿。
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像高5mの金色の阿弥陀如来像を安置し、毎日卒塔婆供養を行っています。
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奥之院。
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正式には如法堂といい、慈覚大師が中国での修行の際に持ち歩いた釈迦如来と多宝如来を本尊として安置。明治4年に火災にて焼失しましたが翌年再建。石墨草筆の写経道場。
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大仏殿・奥之院からの眺め。
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日本三大常夜灯の一つ、立石寺の金灯篭。
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明治28年名工小野田才助が鋳造。
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多聖場は塔婆供養所。
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立石寺は全国で一番塔婆の多い霊場。
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観仏三昧海経と仏足石。
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「千輻輪相轂網相 具足魚鱗相金剛 杵相足跟亦有梵 王頂相衆蠡相」。
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帝釈天堂。
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四面が2.1mの小堂で慈覚大師の創建と伝えられます。
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天保4年(1833)に立石寺第64世慈舜和尚が再建。雷除けとして有名。
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さて、開山堂方面を目指しましょう。
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修行者の岩場。
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胎内堂が見えます。
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昔は観光客も行けたそうです。勇気があれば(笑)
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更に胎内堂の上方(釈迦ヶ峰)には釈迦堂も見えますね。
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わかるかな?
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開山堂です。
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立石寺第65世情田和尚が嘉永4年(1851年)再建。
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慈覚大師のお堂で、大師の木造の尊像を安置。また、1000年以上に渡る不滅の常香があります。
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(※五大堂は次回の記事にて)
開山堂の横には納経堂。奥之院で書写した経文を安置する場所で、慶長4年(1599)7月、山形城主最上義光の祈念により、家臣菱和田讃岐守が修造。
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山内で最も古い建物です(創建は開山当初、再建は不明。昭和62年に解体修理)。
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納経堂は崖上に建てられていますが、その真下(百丈岩)には慈覚大師が眠ると伝える入定窟があります。
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史実としては、円仁は貞観6年(864年)に比叡山で没し、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないのですが、入定窟の上に立てられた天養元年(1144年)の「如法経所碑」が現存しており、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨のことが書かれており、この時代には既に円仁がこの地で入定しているという伝承が成立しています。
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昭和23年に入定窟の調査が行われ、御金棺と人骨(5体分)を発見。慈覚大師と考えられていた遺骸は御金棺に納められていましたが、頭蓋骨はなく、代わりに円仁像にそっくりな頭部のみの木彫像(9世紀頃の制作)が発見されました。慈覚大師頭部像は国の重要文化財となっています。
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断崖絶壁の上に建つ納経堂の写真は山寺の代表的な風景としてよく使われますね。圧巻の景色です。
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