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ブラタモリを振り返りますと、明治時代から現在に至るまでこの近郊に大学が多いのは徳川幕府による昌平坂学問所が湯島にあったため。東京大学や学習院大学なども神田発祥。神田に書店が多いのも同じ理由。
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明治5年(1872)には大成殿を会場として文部省博物局による日本初の博覧会が湯島聖堂で開かれ、特に名古屋城の金鯱が注目を浴びたと言ってましたね。ちなみに上野公園にある東京国立博物館の創立・開館はこの日本初の博覧会(文部省博物館)の年としているんですよ。
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ブラタモリでは他に何を紹介したか忘れました。DVD発売してー!!
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さて、御茶ノ水から聖橋を渡ります。「湯島聖堂」と「ニコライ堂」という聖なる場所を繋ぐ橋なので聖橋といいます。
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国指定史跡。聖堂は孔子を祀った祠堂で孔子廟ともいいます。
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寛永9年(1632)上野忍ヶ岡にあった林羅山の私塾に建てられた先聖殿を元禄3年(1690)5代将軍徳川綱吉が湯島の現在地へと移し、以後聖堂あるいは湯島聖堂と呼ばれるようになりました。
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聖堂移転後、一帯は孔子の生地である魯の昌平郷にちなんで昌平坂と呼ばれました。
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南側の神田川寄りが正面で、仰高門・入徳門・杏檀門などを経て、北奥の大成殿に孔子像などが安置されています。
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昌平坂学問所は寛政2年(1790)に設立された江戸幕府の教育施設。正式には学問所。敷地の一角が昌平坂に面していたので、昌平坂学問所あるいは昌平黌と称されました。
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寛政異学の禁により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった学問所を林家から切り離し、聖堂学規や職制の制定など、寛政9年(1797)までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関としました。
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寛政11年(1799)の大規模な改築にて、大成殿ほか諸門すべてを黒漆塗(従来は丹青の装飾文様)、殿内を石敷(従来は高床)とし、全体的に中国風に改められました。
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明治維新後、大成殿には博覧局が置かれます。博覧局転出後は図書館となり、更に教育博物館、教育書籍館となりましたが、大正12年(1923)の震災で焼失し、現在の建物は昭和10年(1935)建築。
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聖堂が移転してくる前、この辺りには松原があり、俗に松原町と呼ばれていましたが、聖堂建設後、その構内に含まれて名前だけが残りました。
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仰高門。仰高門の額は徳川圀順の筆。
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斯文会館。
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宝永元年(1704)建築の入徳門。
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入徳門の額は藤原基輔の筆。
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杏壇門。
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杏壇とは山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。
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杏壇の額は徳川家達の筆。
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大成殿。大成殿前には階段があり、その前に他と異なる色の石畳が4枚ありますが、これは5代将軍綱吉公時代から現存するもので、触れると学問成就の御利益があるといいます。
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現在の大成殿の額は博恭王の筆。
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屋根には龍頭魚尾で龍頭から水が噴き上げている変わった鯱がいます。更に鬼龍子と呼ばれる聖獣もいます。
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斯文会館の屋根にも色々いました。流石は怪獣好きの伊東忠太作品といった感じですよね。
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湯島聖堂に訪れた際は是非屋根にも注目してみてくださいね。
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世界最大の孔子銅像。
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「教え有りて類無し」
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旧中山道沿いにあり神田神社に通ずる明神門。
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なお神農廟は11月23日の神農祭の日のみ一般公開。
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