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青森県道126号久渡寺新寺町線。
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「レストランくれそん」隣、樹木会館前。
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餓死供養塔がありました。
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『天明の頃(1781-6)津軽は未曾有の飢饉に見舞われた。米作は平年の四分作、貯米も殆ど無く人々は牛馬や犬猫まで食いつくすなど悲惨を極めた。天明3年(癸卯)と同4年(甲辰)の2ヵ年間で餓死者は8万人を越えたという。この塔は、卯・辰・丙(天明6)の年、この地で飢えに死んだ人々の霊を弔うため文化7年(1810)に建てたもので、はじめ、道路端にあったが訳あって畑地に移され、長い間人目にふれることはなかった。この度塔を管理していた、福士武寿氏のご厚意と町会の総意により、この地へ移しその歴史の一端を長く後世に伝えることとした。』
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供養塔の中央には「卯辰丙年餓死供養」、右に「文化七庚午年」、左に「八月廿六日」と刻みます。
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裏側。
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餓死供養塔の横にも小さな供養塔が2基あります。
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それぞれ元文二年(丁巳)の紀年銘で法名、弘化五年(戊申)の紀年銘で先祖代々を刻みます。
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隣には和合地蔵尊があり、地蔵様が丁寧に祀られています。
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また、その一画にはオシラ様のようなものが祀られており、護摩には「聖歓喜天護摩供諸願成就祈攸 護国山久渡寺」とありました。ってことはオシラ講でしょうね。和合地蔵尊ですし。
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餓死供養塔から程近くにある青森県指定文化財(2000年8月30日指定)の成田家庭園。
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『この庭は、母屋から見える座観式の枯山水庭園で、昭和7年に大石武学流第五代宗家池田亭月により作庭されたものである。正面に遠望される岩木山を借景として正面右奥に築山を置き、一段落ちの枯滝を組み、下に二坪ほどの枯池を造っている。また築山左方に黒松と大きな燈籠を、正面に向って中ほどに神拝石を置いている。そして左手庭入口には二神石を、対となる右手には蹲踞を設け、母屋から神拝石と蹲踞に向って飛石を打つなど武学流の特徴が随所に見られる。庭園としては小規模ながら、石や植栽を巧みに配し、岩木山と一体化した深山幽谷の景観を表現しており、亭月の代表作とも言える庭である。』
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むむむっ!
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実に見事な雪囲いである!(ノД`)
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