加茂神社は南貞院から300m程行った場所。
御祭神は別雷神、誉田別神。
創建は大同2年(807)(※もしくは延暦13年(794))。
坂上田村麻呂の子花輪丸が深浦に上陸。蝦夷征伐の際に岩木山麓の長者森に陣を張って滞留、程無く目的を遂げ、この地を花輪郡(のちに鼻輪郡)と名付け、郷民と国家守護のために観音堂を創設し聖観音を祀ったと伝えます。
古くから神仏混合しており、聖徳太子が自ら彫り込んだと伝わる聖観音像を本尊とします。
「高杉観音」又は「観音稲荷宮」として津軽三十三観音霊場として広く信仰されてきました。江戸期「四番札所 高杉観音堂」はこちらにあったといいます。
青森県神社庁には次のような由緒がありました。
「田村将軍の子花輪丸が夷賊退治のため、大同2年深浦に着船し、岩木山麓の長者森という所に陣営を据えられ、長々滞陣の上首尾夷賊を退治。それからその辺を花輪郡と名付たり。これにより花輪の郷民郡中守護のため、加茂神社を当地に建立し、花輪丸自ら筆を染めて緑記並額を納めたり。その後、数百年に渡って緑記並額は伝えられてきたものの、元和年中に御堂を焼失した際に花輪丸緑記並額も焼失。明治6年村社。」
当初は多くの記録や社宝を所有していましたが元和年中の火災でなくなりました。
境内には「安政三丙辰年四月十八日 正観音 稲荷宮 顧主小島末吉」と刻まれた碑があり、かつて聖観音堂と稲荷宮があったことを知ることができます。
明治時代初頭の神仏分離令により聖観世音は四ツ谷の高杉家が預かり加茂神社となります。
廃仏毀釈の気運が下がると再び観音霊場として信仰されますが、観音堂を独立させる気運が高まり昭和42年に南貞院に移されました。
境内に「猿田彦大神」や「牛頭天王宮」や「天照皇太神」更に「飛龍宮」の石碑が奉納されています。
立派な胸像がありました。
昭和17年6月とあります。
人物説明は裏に書いてありました。「早稲田大学に学び…郡会議員…県会議員…貯水池築造事業…云々」と書いてありましたが字が小さくて読めませんでした(笑)興味のある方は現地へどうぞ。
土俵。
その他石碑等。
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