如来瀬の産土神社の1つ。
御祭神は天照大神。
草創不詳ですが相当の古社と考えられています。
所在地名の如来瀬は、この神明宮が元々阿弥陀如来を祀った如来堂(大日堂)と呼ばれていたことに由来すると伝えます。両部神道が登場し、天照大神は宇宙神である大日如来と同一視されるようになります。
寛永6年(1629)に修験の仙明坊が別当となり11代続いたと云います。仙明坊の屋敷跡は当社の南隣の寺屋敷と称する所で、明治初年頃で11代。
神仏分離以後に神明宮と改称しています。
境内にあった手書きの神明宮由緒説明。ちょっと文章が読みにくいですけどそのまま掲載。
『如来瀬の地名はこの地に阿弥陀如来を本尊とする如来堂のあったことが起源となっているが、明治初年(1868年)の神仏分離令(神仏判然令とも言う)により同4年分離。社標によれば、旧仏像は三上惣助宅に移され、同氏個人の信仰に委せられたとある。如来堂を、祭神を天照大神とする神明宮とした経過は判然としない。社地には、中世に出現した死者供養の板碑があるが、応安7年(1374年)・永和2年(1376年)の板碑は、共に南北朝時代のものであり、この地には、当地には当時より集落があり、阿弥陀如来信仰の入っていたことを物語るものである。また、動乱の世に豪族のいたことを示すもので、他の板碑を含め貴重な資料である。』
板碑2基が市指定有形文化財。
阿弥陀三尊の名号と永和2年(1376年)の紀年銘を刻む板碑1基。刻文は「観世音菩薩/南無阿弥陀仏/大勢至菩薩/永和貳年六月」。
種子、紀年銘は確認できない板碑1基。
こちらも不明。これとは無関係かも知れませんが、菅江真澄が次のようなことを記しています。『紙漉沢というところを過ぎて、賀佐の坂を越え、五所という村にはいり、如来瀬村にたいそう古い石碑があると聞いたので、川をわたり、その村をたずねて、路傍に立っているのをみたが、どれほどの年を経たものか、さぐっても文字がありそうにもみえなかった』。
境内にあった板碑説明。
『本石碑の紀年銘は永和2年(1376)であるが、足利幕府は3代将軍義満であり、南北朝の争乱も終焉に向う時代である。永和は北朝の年号であり、この地は南朝方の地であるが、そのような例は各地に多い。板碑は鎌倉時代より室町時代にかけて盛んにつくられた死者供養・逆修供養・念仏供養の板石塔婆(石卒塔婆とも言う)であり、本板碑の種子は阿弥陀如来である。石面には阿弥陀如来を中心にして、右に観世音菩薩名、左に大勢至菩薩名となっており、三尊形式をなしている。当集落の古さと共に阿弥陀信仰を物語る貴重なものである。他の一基は種子、紀年銘はないが、貴重な板碑である。』
紀年銘元禄12年己卯暦5月10日の南無阿弥陀佛の石碑。
こちらは南無青面金剛帝釋尊天を刻む石碑。
本殿へ向う参道。
赤眼が特徴的な狛犬一対。
拝殿。
拝殿内。
本殿。
こちらの祠は薬師如来。
薬師如来について触れられている社殿復元社標由来石碑(昭和39年4月8日川崎光晴謹書)。
『此地 南北朝の頃から阿弥陀如来を本尊とし 観世音菩薩 勢至菩薩を脇立として祀ってきた 又何時の頃からか薬師瑠璃光如来をも境内に祀っていた その頃は神仏一体の信仰による産土神であった 如来瀬の村名もこれに発したるものである 明治維新神仏分離の命に従い 仏教以前の神社に返り社号を神明宮と改め 薬師如来は廃社となり御仏体は惣代三上惣助宅に移された 然る所昭和9年村中相図り再び薬師如来の故地にこれを迎え信仰を集むるに至った 終戦後信教の自由に伴い一同議して正式に社殿を復元し 今回更に社標を建て茲にその由来を誌置くものである。』
こちらの祠には…
馬が祀られております。如来瀬神明宮には上記薬師如来と馬頭観音の他に、ハシカから守ってくれる神を合祀しており、サンベイシ(俵の蓋)を鳥居の近くの石にかけたり、山を描いた塚を立てたりするそうです。
大東亜戦争記念碑。
満州事変従軍之碑。
拝殿より参道を見下ろす…の図。
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