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樹木のTSUTATA辺りから県道126号線久渡寺新寺町線を通り小沢へと向ってみました。
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小沢村の集落は弘前城下から久渡寺へ至る街道沿いに発達。
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慶安2年道筋帳には小道の1つとして記されており、「弘前より小沢村迄廿五町、小沢より久渡寺板木(坂本)迄十七町廿間」とあります。
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津軽歴代記類・寛文7年郡奉行・町奉行宛の覚によりますと、宝暦5年(1755)に地内小沢野において鶉狩が行われています。村内の小沢野・大ひらき野は鷹待場でした。また同所は操練場と定められ、安永7年(1778)井上流砲術の竹森又吉の演習を宇和野において7代藩主津軽信寧が高覧。寛政4年(1792)には手者頭の練兵の様子を9代寧親が高覧。文化7年(1810)書院番と表書院番の両組が、以後毎年春秋一度ずつ備立ての操練を行うよう仰付けられています。
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コメリの裏手に回ると季節によっては素晴らしい光景が見られます。
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樹木からかつての練兵場の終わるところまでは久渡寺の参道として松並木があったといいますが現在は残っていません。国日記によりますと享保元年(1716)小沢村三ヵ沢へ漆木1万本が植付けられた記録があります。
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旭ケ丘、緑ケ丘、清水、若葉、大原、桜ヶ丘、城南、大開、金属町、青樹町などもかつての小沢村の一部(小沢はかつて清水村の一部)。
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平坦な道がないですね。南高生は凄いです(笑)
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松並木が終わるところからは土淵川の河谷に道が下がり、再び小沢村へと上る坂道になります。これが小沢入口の飢渇坂(ケガジ坂)。
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凶作の年に村人が空腹のあまり、その坂を上れずにそのまま倒れこんで亡くなったと言われています。天明の大飢饉では死者が山積みにされ、後に飢饉供養碑が建立され、後に久渡寺に移されたといいます。
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各地の飢渇坂と名付けられた坂の由緒は大体このような感じです。
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弘前市大原と小沢の境辺り…随分と道路が変わりましたね。
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飢渇坂はかなり埋め立てられて傾斜も緩やかになったといいます。とはいえ、道路から少し逸れるとその勾配があきらかですね。
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蟹沢という地名になっていますね。沢蟹がいるのかなぁ。
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交差点付近に2つ地蔵堂や庚申塔がありました。
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坂上の地蔵堂は飢渇坂で亡くなった方々の供養のために建てられたものと伝えます。
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坂上ってこっちの地蔵堂のことかな。
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身代り地蔵とありました。
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庚申塔でかいっ!
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豊年橋の石碑。
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豊年橋の親柱とも思ったのですが形状を見ると違うようです。
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1つしかありませんし。
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石碑には大正三年と彫られていますね。
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交差点の中央からは四方八方どこへ進んでも高低差を感じる地形。
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また東方向には弘前高校グラウンド
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西方向には岩木山が見えます。
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