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天津院の東隣に位置。本尊は十一面観音。もと長勝寺末寺。開山は学翁保文。開基は不詳。
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長勝寺並寺院開山世代調によりますと、かつては沖館村にあったとされ、開基を天正8年(1580)としています。その後堀越村を経て弘前城下へ移ったとされます。
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正徳元年(1711)の寺社領分限帳によりますと、慶長年間(1596-1615)沖館村より現在地へ移ったとされます。
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本尊について次のように伝えます。
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天正2年、藩祖大浦(津軽)為信が、大光寺城にいた滝本播磨重行を攻撃しましたが失敗。同城に近い沖館村の観音堂に100日の願をかけ、翌3年元旦未明に大光寺城を奇襲し勝利を得ます。念願が叶った為信は観音堂を改築。その後、観音堂は野火のために焼失しますが、本尊十一面観音は助かったそう。しかし別当貴峰院も焼けたために、近くの月峰院に預けられ、そのまま当院に祀られることになったといいます。
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津軽俗説選には、津軽三十三観音の第29番札所沖館村の十一面観音は、今は月峰院にあると記しています。また同書によりますと、当院の傍らに難産を救う子安地蔵堂がありましたが、天明3年(1783)の飢饉の際に廃亡。
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平山日記によりますと、元禄6年(1693)喰川村(現五所川原市)の檀家が、当院が遠すぎるために、同村内に末庵竜泉庵を建立することを願い出て許可されています。
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新撰陸奥国誌には本堂西南に鎮守堂があり荼祇尼天を置いていると記していますが、『津軽ふるさと散歩』では仏教系の瘡守稲荷で、当寺の五世南翁師が寛永5年(1665)に江戸で有名な笠森稲荷を勧請したものと記しています。
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禅林寺院の鎮守稲荷は荼祇尼天が多いのですが、月峰院の瘡守稲荷は治病の神として広く信仰されたそう。
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ここに参って堂内にある土の団子を持ち帰り、別の土と混ぜてドロドロにした後に瘡に塗りつけると、すぐに乾いて瘡ぶたがとれて治癒したそうです。詳細は『鎮守 稲荷宮略縁起 全』(弘前市立図書館蔵)に書かれています。
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