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真言宗醍醐派 行峯山 覚應院。湯口集落の南端、湯口山の麓にあります。
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かつては修験宗行峯山長楽寺と称していました。本尊は波切不動明王。津軽弘法大師霊場第七番札所。津軽七福神霊場、寿老人尊。(-人-)チョージュ、チョージュ。
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寿老人の木像ですが、この日は寺院内に誰もおらず、見ることは可能なのですが、窓が二重構造になっているため、写真では上手く撮ることはできませんでした。
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それでも器用に撮る人がいるものです(笑)
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五代藩主信寿の時に、藩家老の喜多村監物政方(初代別当)が茶臼館に不動尊を安置したことに始まります。
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湯口茶臼館は先住民の築いた館跡を利用して築かれた中世の山城。元中2年(1385)築城。
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アスレチック的遊具がいくつかありました。
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湯口茶臼館の頂上にはあずま屋があります。
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西の斜面には4段の腰曲輪が築かれていた名残りがあります。
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鐘楼。
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不動堂。
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長慶天皇が紙漉沢御所におられた時に供奉の溝口左膳亮が居城し、東方警備に当たった場所と伝わります。
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溝口氏は代々修験者の流れを継ぐ家で、溝江と改姓したのは江戸の末期といいます。溝口氏は応永元年(1394)6月の長慶天皇崩御後も当館に残り修験者となり行峯山を開いたとか。
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記念碑。『溝江家の起元は明らかではないが、初代は享保14年に死亡して居るので今から260余年位になる。元は茶臼山の中腹に墓地があったが、何代かの人が傳染病にかゝり親類の手傳もなかったので山の麓に移轉されたと聞く、その後一族が集結せるも環境悪く面積少なく墓石建設にも事欠く有様なので現住職を中心に相謀り溝江家の山を切開き昭和51年7月13日完成せり。此の落成に當り由来を後生に遺すため茲に記念碑を建立せり。』
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享和3年(1803)の寺社領分限帳によりますと、真言宗の三宝院(現京都市伏見区)系で、大行院(現廃寺)の支配。最も古い過去帳によりますと、草創は享保13年(1728)、開山は大越家阿闍梨覚栄。
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藩政時代は祈祷寺であり、代々の藩主が毎年祈祷に訪れて、最勝院などとともに寺禄20俵を得ていました。嘉永4年(1851)には新義真言宗に入帰。
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明治初年の新撰陸奥国誌には長楽寺とあり、寺禄は0.35石、包25個とされていますが、明治7年に真言宗醍醐派行峯山覚應院(7代目住職)と改称。
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長楽寺由緒によりますと享保13年(1728)から嘉永4年(1851)まで修験宗で、行峯山行楽寺と寺山号を許されていましたが、同年11月修験宗を廃し、新義真言宗に入帰。
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旧暦6月28日に祈祷・護摩の大祭が行われています。
本尊の波切不動明王は2代藩主津軽信枚の守護仏と云われており、享保13年(1728)8月に5代藩主出羽守津軽信寿公の家老喜多村校尉政方氏の寄進。天正13年(1585)、津軽為信が参勤交代の途中に秋田沖で暴風雨に遭い、大原真守の宝刀を海に投げ入れると、荒れ狂っていた海が静かになり、いかりをあげると投じた太刀が不動明王の尊像と共にいかり綱にかかって引き上げられたという伝承が残されています。
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