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寛永末年の津軽弘前城之絵図では、子の櫓、門に囲まれた入母屋造りの平屋の建物、渡り廊下で繋がれた長屋風の建物などが見られる場所。館神の入口には平屋の建物が配置。
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宝暦6年の御本城絵図によりますと、館神が記載され、更に文化2年の御城郭分間真図では屋形風の建物はなく、御宝蔵や御蔵が記載されており、郭の使用形態が時代によって変わってきたことを伺わせます。
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北の郭への直接の入口は2ヶ所(本丸からも行けます)。
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二の丸から入る際の売場を古地図の見張場から撮ってみました。
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地図の赤い場所辺りが現在の入場券売場です。手前には北門という文字が見てとれます。
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こちらは子の櫓跡です。木製デッキが設置されていました。
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北の郭北東隅の土塁上には、藩政時代を通して3層の櫓がありました。櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていたと言います。
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廃藩置県以降もその姿を留めていましたが、明治39年(1906)に花火のため焼失。焼失理由として煙草とか花火とか残念な原因が多いですね(笑)
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ここから見下ろした草木の生えていないちょっとしたスペースにもかつて何かがあったのでしょうかね。
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平成13年度の発掘調査により、正方形に並ぶ櫓の礎石と石段が確認されました。
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櫓の礎石には、石切の際の矢穴や柱を据えた凹みのあるものがあり、中央には束石があります。
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櫓の規模は4間×4間(約8×8m)であり、二の丸に現存する3棟の櫓と同規模。
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櫓の基礎及び石段については発掘調査で確認されたままの状態で表示されています。
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鷹丘橋(平成10年架け替え)は内濠を隔てて本丸と北の郭に架かる橋。
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弘前城の旧名である鷹丘城(高岡城)に由来します。
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1670年(寛文10年)に4代藩主信政が母の屋敷のある北の郭を行き来するために架けられた橋で、戦の際には敵の侵入を防ぐために壊される橋だったそうです。
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弘前公園の敷地全体が南から北に向かって緩やかに傾斜しているため、杉の大橋や下乗橋に比べて橋げたも低くなっています。
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古地図では橋の本丸側不通門があり、その後ろに見張場があります。
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