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「ようせんじ」とも「えいせんじ」とも発音するようです。
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本尊釈迦如来。もと耕春院末寺。開山は中山種。開基は不詳。
元々は新屋村にあったとされ、開基は文禄2年(1593)。
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寺伝によりますと、新屋村村民が金屋村の十津に同年草庵を建て、中山を庵主に迎えたのが始まりといいます。後に寺に改めて耕春院の末寺となりましたが、戦火に見舞われて焼失。金屋村に屋敷を構えていた森内左兵衛繁吉が再興し、元和元年(1615)頃に弘前城下に移転。このため森内左兵衛を開基にあてています。
※永泉寺跡のすぐ近くに金屋の原村といわれている十津村跡があります。十津は南北朝時代、南朝方の紙漉沢(旧相馬村)と朝廷との連絡に当たった修験のいたところで、永泉寺の元の草庵は修験僧の庵であったともいわれています。相馬村の中沢一族の方々も永泉寺檀徒。言い伝えでは森内左兵衛も十津から来ており、墓石も十津から移されたといいます。
※永泉寺跡は金屋字下早稲田。金屋集落の東南の水田地。昭和48年に発掘調査が行われており、平安時代・中世・近世にわたる遺跡があり、時代不明な住居跡2軒、中世の建物跡1軒、溝状遺構などが検出。遺物として平安前期の土師器、須恵器やそれより後代の土師器、中・近世の陶磁器や五輪塔なども検出。
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正徳元年(1711)の寺社領分限帳によりますと、山号は新屋山となっており、慶長年間(1596-1615)に現在地へ移ったとされます。
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津軽一統志や津軽俗説選でも山号は新屋山となっており、正徳年間以降江戸時代末期にかけては新屋山と号していたと思われます。
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新撰陸奥国誌によりますと、山号は金谷(ママ)山となっており、鎮守堂には陀祇尼天を祀るとあります。
旧暦2月15日の釈尊涅槃の日には江戸時代から伝わる掛け軸「釈尊涅槃図」が公開されます。
境内には森内左兵衛繁吉(津軽藩士・森内一族の元祖)、田中宗右衛門宗久など著名な人物の墓碑がいくつか残されています。
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推定樹齢400年のオオモミジは弘前名木百選に指定。
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また、この木を詠んだ増田手古奈の句碑(「子等のとき登りしといふ花楓」)があります。
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水琴窟「永泉の雫」です。
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常滑焼きのカメを埋め込み粋を極めた石工師木村健蔵氏の渾身の一作。
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仏足石です。
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ブッダの足跡を彫ったもので、仏像が制作される以前から、ブッダそのものを表現したものとして礼拝の対象とされてきました。
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仏足石の下には釈尊成道の聖地インドブッダガヤの近郊尼連禅河の砂が埋められています。
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