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東洋初の地下鉄駅。関東の駅百選認定駅。当初の地下鉄は銀座線浅草ー上野間(2.2km)です。地下鉄浅草駅は浅草寺をモチーフに作られており、これは昔のままの姿です。日本最古の地下鉄の出入口…通称赤門。
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ブラタモリでやっていましたね。地下鉄の造りは昔の面影を色濃く残しており、天井は低くなっており、更にはベルリンやニューヨークの地下鉄を参考に鉄骨鉄筋コンクリートで造られたそう。上野まで手掘りだったのも驚きでした。
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ブラブラして辿り着いたのは戦災慰霊碑。墨田公園は空襲で亡くなった方々を仮埋葬した場所らしです。
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言問橋の縁石。
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1992年に欄干を改修した際に基部の縁石を切り取ったもの。1945年の東京大空襲の際に言問橋は猛火に見舞われて多くの方が亡くなりました。この縁石は当時の痛ましい出来事の記念碑としてここに保存されているものです。
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現在の橋の親柱は一部未改修のため現在も東京大空襲で焼け焦げた際の黒ズミが当時のまま残っています。
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空襲の際に焼死した人の遺体から流れ出た血と脂のシミが焼きついたものと言われています。生々しくも風化されてはいけない記憶。ちなみに以前紹介した江戸東京博物館裏庭にも言問橋の欄干と縁石が展示されています。
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M50マグネシウム焼夷弾。
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B29の機関銃。
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wikipediaより…
「1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の際には、浅草方面の人が川の向こうに行けば助かると思い言問橋を渡ろうとしたが、反対の岸にいる住民(向島・本所地区)も同じ事を考えており、橋の上で合流してしまい、身動きが取れなくなったところで橋の上にも火災旋風が容赦なく襲いかかり、耐えかねた人々は次々と欄干から身を躍らせ、死体で埋まった隅田川に落ちていったという。空襲が終わったあと、隅田川は一面凍死体が浮き、言問橋の上には黒焦げの焼死体が、河川敷にも積み重なった累々たる死体の山が築かれていた。」
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