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杉山源吾の屋敷跡は現在普通の民家になっていますが、庭には杉山源吾の供養塔が残っています。高さ約70cm。「南無観世音菩薩」と刻みます。杉山家2代吉成が建立したと考えられています。源吾の家(三上家)は神傳同様の旧家にして代々喜兵衛と称して八幡宮の鍵を預かっており、鍵持ちの喜兵衛と呼ばれました。杉山祖先の屋敷にして杉山屋敷と称し東南隅に小高き社あり。天に聳える老松2株及び古桜1株が往時の面影を残すといいます。慶長5年、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の二男隼人正源吾が徳川方の追求を逃れ、海路津軽西浜に上陸。深味の地に亡命し、神家に身を寄せました。この時源吾は12歳であったといいます。その後、杉山に姓を変えて、守護神を祀りながら秘かにこの地で隠棲したとされています。源吾はこの地で一児をもうけましたが、慶長15年4月28日に23歳でこの地で没しました(※慶長15年ごろまで隠棲しその後出府して寛永18年(1641年)に53歳で死去したという説も有力)。2代目八兵衛は寛永10年津軽3代信義に召出されて、1300石の本侍となり、この地一帯が杉山の知行地となりました。弘前城下に移住するまでここで生活し、今でもこの地を杉山屋敷と呼んでいます。
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樹齢400年のアカマツの根元に南無観世音と刻まれた供養塔。
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『関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の二男隼人正源吾が、徳川の追及を逃れ深味村の神家に身を寄せ杉山に姓を変えた。源吾の長子八兵衛吉成は津軽三代藩主信義に召し出され、後に組頭千三百石の本侍となり、この地一体が杉山の知行所となった。弘前城下に移住するまで、この地で生活したといわれている。町の古老はこの屋敷を杉山屋敷と呼び、樹齢数百年の老松が枝を張っている。』
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『慶長5年(1600)石田三成が関ヶ原の戦で徳川家康に敗れ三成の二男隼人正源吾が落ちのび深味に隠棲、姓を杉山に変え、現在の三上家の所に屋敷をかまえ杉山屋敷と呼ばれた。後にこの地一帯が杉山知行所(武士が殿様から給された地所)となった。アカマツは当時植えたものであろう。松の樹形が良く、手入れされた様子がうかがえる。根元には「南無観世音」と刻まれた墓碑が建っている。』
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