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御祭神は誉田別尊、少名彦名神、保食神。
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旧郷社。天正4年(1576)旧3月、津軽平定の途上にある津軽為信は、鯵ヶ沢地方巡視の帰り妙堂崎の山手にさしかかった際に、遥か東北の方に茫々と広がる芦原を望むと、無住の地と思わる彼方に一大老樹(柏の木・現在の広須農村公園にありますが、初代ではないようです。これが柏村の名の由来となります。)が天を覆っていました。
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その傍に一条の炊煙が立ち上るを見つけて奇異の念を抱きそこを尋ねる事にしました。
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辿り着くと一大老柏木の傍に工藤祐益、花巻頼母、山崎織部等落武者の葦芽の家があり、粟稗が耕されていました。
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一行は暫くこの草庵に憩をとることにしたそう。昼時になると村人達は心を込めて粟や稗の酒飯を炊いてもてなしました。
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上機嫌になった為信は工藤先左衛門祐益の産土神を祀りたいという願いを聞き入れ、翌天正5年にお宮を建立したと伝えます。祐益老の孫千之太夫が宮司。
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また、為信公より下賜された金造の神像を御神体とします。
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国家安穏、 五穀成就、 萬民豊楽、 武運長久の祈願をこめ直筆の棟札を奉納。 
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この地は広須野と名付けられ、開拓後広須村となったために広須八幡宮と呼ばれました。
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寛文8年、4代藩主信枚公が川端村(現在地)に移転し川端八幡宮と改称。
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広須新田一帯の守護神で、社殿の修復などは官費で賄われたといいます。
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明治22年旧川端村域は合併により柏村となり、為信公の棟札に正八幡宮とあったことから柏正八幡宮に改称。
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相殿保食大神(末社稲荷神社)建立年月日不詳。
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水虎様等。
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手が壊れてます。
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桑野木田廣大山浄円寺地守神として勧請。享保3年再建。その後合祭され相殿神。
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相殿少名彦名神(末社薬師宮)寛文3年に勧請。明治6年郷社配置の際に合祭されて相殿神。
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こちらも水虎様かなぁ。
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