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赤門です。禅林街33ヵ寺の内12ヵ寺を構成し、黒門通りとは対の関係。
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黒門が長勝寺構えと言うのに対し、赤門では耕春院(現宗徳寺)構えと称し、耕春院を中心に主に現室派が集められたと言われています。又、長勝寺構えが東西に直線的に配置されているのに対し、耕春院構えは枡形に配置する事で南北を現しているとも言われています。
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長勝寺構えは築城の時に茂森山を切り崩し、更に天満宮から南、茂森新町の間に堀を造って水を留めて、掘った土で土堤を造りました。南側は早く埋められ昭和初期までは小さい堰が名残りをとどめていたそうですが、北側は大きい堀で、夏は釣り、冬はスケートなどが行われていたそうです。
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赤門です。大正時代に宗徳寺廿八世棟方唯一師が曹洞宗青年会の諸師と托鉢しその浄財にて建立。 ちなみに昭和37年10月の大改修までは黒門でした。最近では2002年にも解体改築されています。っていいうか今年の春頃にも何やら工事していたと記憶しています。
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子育地蔵尊や「山門禁葷酒 (さんもんきんくんしゅ)」の石碑があります。子育地蔵は古くから子安地蔵・妖化地蔵として大変有名でしたが、天明3年の凶作の際に廃れて無くなり後に再建。更に近年、小松石の地蔵尊が建てられて子育地蔵の名で寺詣りの人の供養を受けています。
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「山門 葷酒を禁ず」
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赤門が描かれていない古地図。
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続いて黒門です。
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長勝寺の総門として位置づけられていますが、禅林街全体が弘前城の出城的な役割を持っていたことから、城郭門としての機能もあり高麗門形式を採用。
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黒門は史跡弘前城跡長勝寺構を構成する重要な遺構の1つとして貴重な存在であり、昭和53年に弘前市指定有形文化財に指定。 
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こちらは「葷酒(葷肉)山門に入るを許さず」と読みます。お酒や臭いの強い野菜を持ち込むこと(又は飲食した者)を戒めます。※「五葷」…ネギ、ニンニク、ニラ、らっきょう、あさつき。
4代藩主信政が長勝寺参詣の際に、不許葷酒入山門がないのは禅林らしくないといい、すぐに立てさせたと言いますが、当時のものは石塔ではなかったそうで、現存のものは幕末の津軽藩の書道の大家、小山内西山(もしくは甥の暉山)の書であると伝えられていますが、碑に銘などは一切なくはっきりしていないそう。
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黒門の建立年代は不詳。延宝5年(1677年)以前には現在地に門はなく、100mほど長勝寺寄りに下馬門(京徳寺前付近。京徳寺には下馬札がかつてあったために、ゲンバと呼ばれます)があったことが文献から推定され、貞享4年(1687年)以降の史料では現在地に門の表示があることから、この10年ほどの間に門が作られたと考えられています。
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昭和20年代頃の黒門。左右に石壇があり、右は立札用のもので、長勝寺の行事の表示に使用したそう。下の写真に立札が見えます。
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戦前の禅林街。
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※高麗門とは…
高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門。
鏡柱と控柱を1つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施されています。江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして多く築造されました。
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弘前城跡の案内版など。
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※「弘前城跡」という案内板に違和感を感じる人がいるかも知れません。元々は昭和27年に本城一帯と、城下町の外側に作られた長勝寺構と新寺構が「弘前城跡」として国の史跡指定を受けました。
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その後の堀越城跡種里城跡を追加指定するなどして、現在の「弘前城跡」は名称も含めて「津軽氏城跡(種里城跡・堀越城跡・弘前城跡)」となっており、指定面積は約1,058,000㎡…広い「跡」だなぁ(笑)
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堀越城跡はつい最近も32mの大きな門跡が見つかってます。大浦城跡新寺構などはまだまだ何か発見されそうですよね…発掘無理っぽいけど(笑)
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