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浄土宗誓願寺(弘前市)の末寺。
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蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によると元和3年良無の開基とありますが、誓願寺旧記(新撰陸奥国誌)には万治元年(1658)良無玄道の開基と伝えられ、難破による死者の冥福のため一宇を建て、誓願寺天暦に山寺号を乞うたといいます。
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当初は寺屋敷跡に所在したとされます。
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菅江真澄も訪れています…近くの西願寺も正行寺も…まぁあの方はどこにでも訪れているんですけどね。
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本尊阿弥陀如来像、脇侍の観音、勢至菩薩が町有形文化財に指定。
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「高祖光明善導大師」
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「宗祖 圓光東漸慧成弘覚慈教 明照和順法爾大師 法然上人」
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中泊町指定文化財の阿弥陀如来像。
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「無縁山観音院海満寺 開山 良無玄道 上人」
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両隣にあるのは中泊町指定文化財の観音・勢至菩薩。
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海満寺観音堂。
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津軽三十三観音十八番札所。
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寛永10年(1633)建立。
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当初は現神明宮境内にあり、飛龍宮と称されていましたが、明治の神仏分離令により神明宮を分立、観音堂は現在地に移転。
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江戸後期は飛竜宮に改称し、明治初年に本尊聖観音像は海満寺に移され、堂は取壊されたといいます。
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文政年間小泊沖から引き上げられた聖観音像(町有形文化財)を祀っているそうですが、どうもこれとは違ったようです。
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博物館かどこかに移されたのでしょうか。
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境内には百万遍がありました。
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御詠歌。「見渡せば御法も深き海満寺鐘の響に浮ぶ海士人」
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その他資料より一部抜粋…『(前略)当時海難事故により他国の漁師等多数海の底へ消えた。その無縁仏の供養をするため行脚僧、良無玄道が阿層内の寺屋敷に庵室を設けたと伝えられ…(中略)今の観音堂も江戸初期には現の神明宮境内に祀られていた。ところが宝永元年(1704)の山津波により無縁墓地や海満寺庵室も海の底に沈んだ。阿層内から現在の場所に移転したのはその頃と思われる。時は過ぎ1825年頃の文政年間に小泊101に住む漁師北島七兵衛が弁天崎沖合の通称「コメグリ」という場所でタラ網漁をしていた際、黄金の光をはなち海から上って来た仏像が現在観音堂の御本尊聖観音像である。明治初年の神仏混合廃止令が発せられ神明宮境内から現在の丸山に移され十八番小泊観音堂となったのである。寺宝は、元文6年(1741)天明3年、大正8年(1783)昭和29年と幾度もの火災に見舞われ過去帳、御本尊までも焼失した。元文6年の火災の再建に大貢献された庄屋であり、舩問屋であり代々津軽藩の御用船頭である、川村屋儀兵衛の存在は見のがせぬものである。昭和29年の火災には小泊234の中村増太郎仏師作の本尊が火の粉と化した。現在の仏像阿弥陀如来は昭和29年京都の大仏師吉岡宗雲(高村光雲の門下生)の作。脇侍は大正9年小泊234の中村慶三郎仏師の作品。聖観音像は平安時代藤原後期の作風といわれいずれもすばらしく昭和58年村の文化財指定となる。他に金仏の不動明王三尊仏、木彫の龍頭観音像も祀られている。(後略)』
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