中沢橋の横。旧郷社。
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御祭神は天照大日靈命、伊弉諾命、伊弉冉命。 
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青森県認定「私たちの名水」。
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神明宮のトヨの水。
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藩政時代から禊、水垢離、茶道の清水に使われ、また往時日本海を往来した北前船にも積み込まれた貴重な飲み水でした。今もなおお茶を嗜む多くの人々に愛用されています。
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あれ?何か違和感。
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神明鳥居ですが柱が四角柱。
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しかもその四角柱をすべて45度ずらしたような組み合わせ。
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私は見たことない気がしますけど、これって結構珍しいタイプじゃないのかなぁ。
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「花塚」歌句碑。
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安政2年2月に建立されたこの石碑は、表面に「花塚」と刻まれていることから「花塚」と呼ばれています…そのまま(笑)この碑を建立した人々の名が始めに中村市郎平が一段高く、以下順に、大善院、善寿院、大高董仙、広田由左衛門、竹越元治郎、松平武平、浦谷源蔵、山崎松亭、同豊前、工藤周坊の計11名の名前が刻まれています。そして裏面には文化年中に活躍した浦谷源助の「花塚やきのふの露に蝶ふたつ」の発句と、山崎元雄の和歌「いけ花にこころをこめし□(不明)のらばいく世たむへき神の社に」が刻まれています。
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手元に資料はありませんが深浦の古地図を見るとしっかりと記載されている神明宮。
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はじめ寛永11年(1634)、2代藩主信枚により、海上航行の安全と国中安泰祈願のため、吾妻館館跡に勧請されます。
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のち元禄11年(1698)、4代藩主信政の頃、中沢鎮座熊野宮に遷座神明宮となり熊野宮合祀、鳥居と石橋を寄進。当時は本殿6尺4面、神楽殿2間4面。
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しかし葛西木庭袋伊豫守頼清が現在の吾妻沢付近に吾妻館を築いた際、木庭袋氏の内神である御伊勢堂を祀り建立 (神明宮) とあることから1500年代から吾妻館の館神として祠があったと推察されています。初代木庭袋若宮大夫平信貞慶長18年 (1613) 中沢熊野宮社司となるとあるので、 寛永11年は2代木庭袋時大夫の時代に2代信枚が再建の形で勧請、4代信政の時代に現在地に遷宮熊野宮も合祀したものと考えられます。 ちなみに寺社領分限帳によれば寛文11年(1671)創建。貞享4年検地水帳には神明宮社地がみえます。
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延暦年間(1744-48)、安永年間(1772-1781)に火災にて社殿ほか宝物、古文書等を焼失。
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拝殿は明治6年に深浦小学校として使われていたことがあるそうです。
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本殿。少々荒廃していますね。
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摂末社等。
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高山稲荷神社、手置帆負神社、少童神社、大山祚神社、熊野神社などが祀られていました。
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参道正面にふれあい橋(夜になるとブルー、オレンジ、ホワイトでライトアップ)が見えます。
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