御祭神は大道寺力命、オリ女命。創立年月日不詳。
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藩制時代には五林権現堂と称されていました。安政2年の棟札に「奉再興五林権現堂」とあります。
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文治・建久の頃、頼朝公の追討軍に発覚された義経の家臣大導寺力は、大導寺沢に立籠り、衆寡敵せず、遂に討死。五林村で同棲していた身籠りの妻のオリは「妾は末永くこの地の産神とならん」と伝い残し、夫の跡を追いて自刃。村人はその哀しい運命に遭いる2人の神霊を祀り五輪塔にしたと伝えます。
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私が訪れると、ちょうど堂内にて地元の方々が集会を開いておられました。
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五輪塔は神殿中央に安置されているとのことだったので、失礼ながら集会中に中に入り、五輪塔について質問したところ、快く見させて頂きました。
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スリッパまで用意し、写真を撮りやすいようにとライトアップまでして頂きましたが、角度的にうまく撮れなかったことを最初に申し上げておきます(笑)
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地元の皆様に「せっかく来たのだから宮司から鍵を借りてきてやる」と言っていただきましたが、さすがにご迷惑でしたし、格子窓から十分見ることができたのでお断りしましたところ、すぐ近くの博物館にレプリカがあるとの情報を頂きました。本当にご丁寧にありがとうございました。
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さて、五林神社の御神体は五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。いずれも中里町指定有形文化財。
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本来、五輪塔は大日如来の供養と関連して広まり、一方宝篋印塔は『宝篋印陀羅尼経』を納め礼拝する目的で造られましたが、時代が下ると死者の供養や墓標として使用されるようになりました。
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この五輪塔は高さ120cm、幅・奥行は約46cm。造塔の年代は室町時代前期と考えられています。宝篋印塔は鎌倉時代から室町時代と推定。石は福井県の日引石製。
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五輪塔の両側に宝篋印塔が安置。形はバラバラとなって置いてありました。
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陸奥古碑集には青木青鵞が江戸時代末に旅した際、五輪塔ほか四基の宝篋印塔が確認したことが記されています。
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また、菅江真澄は「羽立という村から左手のほうに五倫という部落がある。そこには寺のあとがあり、だれの五倫塔だか塔があって、むかしは栄えたという話である。」と記しています。(※以下の写真はレプリカ)
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また、寛政10年(1798)に石塔の状況(「梵字の形すらやぶれ、まろび、あるははてり」)及び子供の病気平癒を祈願する習慣があったことについて記しています。
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五林堂縁起では源義経の従者大導寺力の妻オリのための石塔で、産土神として信仰されてきた伝承が載せられています。
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神社一帯はこの五輪塔の残存にちなんで「ごりん」「五林村」と呼ばれ、享保の絵図では「石塔ノ添」「五輪野道添」などと載せられているほか、集落の東に環状の林を描いています。
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ちなみに五林館という城がかつてあった場所でもあります。
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五林神社からすぐ近くの中泊町博物館。
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大人200円と有料ですが見学して損はないと思います。いや、むしろ200円なら見学しないと損なくらい充実していますよ。駐車場がガラーンとしていたので正直期待しなかったのですが、入ってみたら見応え充分の内容!
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海獣骨(近世/冬部)。
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懐かしい電車の切符切りは快感(笑)
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縄文土器をぶっ壊せるのも快感(笑)※レプリカとは思えないレプリカを壊して組み立てるというコーナーがあります。
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縄文から昭和の懐かしいもの、鉄道関係まで、貴重なものが幅広く展示されております。向かいには図書館もあって大変便利。是非。
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