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入口から橋です。いかにも堰神社。
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要記秘艦によりますと慶長14年(1609)、度々破損する堰口の構築のため、堰八太郎左衛門安高が人柱となり成就。
津軽歴代記類によりますと、慶長年間(1596-1615)浅瀬石川の水を境松(現黒石市)で取水する藤崎堰がたびたび破損し、農民が難儀。安倍高星丸の子孫で堰八村の堰役太郎左衛門が、慶長14年4月14日藩の許可を得て堰口で人柱となりました。藩は子の太郎左衛門に五千刈の田地を与えましたが、元和元年(1615)記録を紛失して没収。
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また、藤崎村鎮座堰神社誌によりますと、寛永15年(1638)堰口が破れ、普請奉行桜兵左衛門が由緒を調べ、家老青木兵左衛門より堰成就祈願を命じられ、翌年3代藩主津軽信義が藤崎村に水神として祀るよう社領10石を寄進。太郎左衛門の子孫吉宮太夫高則を社司に。同18年、19年の不作で社殿建立は差控えとなり、正保2年(1645)藩の物入で建立され(平山日記)、藩主により福田宮堰神社と名付けられました。この時に社地が現在地に定められたと考えられています。
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御祭神は堰神。貞享4年の検地帳には「水神社地 吉宮太夫抱」とあります。元禄5年(1692)、武田源左衛門が五所川原堰開削の元締になり、藤崎堰、横沢堰、枝川堰、五所川原堰の水下農民が氏子になり、毎年田地一反につき米一升の供米を納めています。正徳5年(1715)神楽道具を整えるため水下常海橋・夕顔関(現北津軽郡板柳町)、亀岡・西中野目が銭162匁1分5厘、享保5年(1720)神楽の費用に水下より田地一反につき銭6銭が納められています。
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明治初年に荒廃するも同41年に水下農民により修復。
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案内板より…
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「堰神社は…(中略w錆びて読めずw)…文化5年、堰神二百年祭に建てられた石碑などがある。また、堰八家六代豊後安隆は、元禄六年の生れであるが、今なお津軽地方に残る「津軽神楽」の創始者である。」
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雨水貯留池か何かでしょうか。
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水が何も無かったので石が丸裸。
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本堂にも立派な橋が架けられていますね。
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摂末社の天満宮。
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摂末社の神明宮。
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菅江真澄が以下のように記しています。
「藤崎にでると福田の神という社があった。その由緒を問うと、黒石のほとりの境松というところに、堰八村といって、田に水をひく堰が八つ流れている。そこに見張小屋を建て、番人の士をおいて守らせていたが、たいそう荒い水のためにおしながされて、いつも守り切れなかった。そこで堰八太郎左衛門という堰守の士が、「世に人柱というためしがあると聞いている。そうすることが水を治めるのによいであろう」と、天に祈り、地に誓って、慶長14年(1609)己酉4月14日、剣のような井杭の先をわが腹につきたて、「さあ、うて」といって井杭とともにうたれ埋められた。
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そしてそこに堤をきずき柳を植えたのちは、全然いささかの水害もうけることなく、広い田面に水をひくことが容易になった。その太郎左衛門の霊を神として斎い祭り、堰八明神と称え、福田の神とか堰神とも申し奉っている。
そのころ、領主から五千刈の田地をこの社に寄進されたが(慶長・元和(1596~1624)の五千刈は、いまの一万刈で、五十人役にあたる)、どういう事情からか、のち田地はめしかえされたので、福田の堰神の社は荒れほうだいに荒廃した。また雨も激しく降り続いて、堤はくずれ、堰は破れて、それから築いてもむかしのようにはならなかった。
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農民たちはこれを心配して、役人に訴え出たので、福田の神の御たたりであろうとおどろかれ、田地をもとのように堰八の子孫に与えて、正保2年(1645)に社も再建された。この神社のうちに太郎左衛門が自らつくった木の人形があり、深く秘めている。その子孫の堰八吉宮という人が神主となって、社のかたわらに家を建てて住んでいた。
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奉社の神垣があり、多門天の前宮であると言い伝えている。路のかわらに多門天王の堂があり、鳥居の額に奥法山と記してある。むかしはこのあたりは奥法郡であったという。この奥法山興福寺はたいそう大きな寺であったが、いま弘前にうつして奥法山藤崎寺とよんでいる。」
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お次は青森の伝説より…
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「藤崎町の堰神社はもとは堰八明神・福田の神・堰神などと呼んだ社であった。田に水を引く堰が八つ流れているので堰八と呼ぶ場所に、太郎左エ門という堰守りが番小屋を建てて、水路を守っていた。しかしここは流れが激しく、水害を防ぎ止めることができなかった。
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太郎左エ門は人柱になって水を治めようと、慶長14年(1609年)4月14日、杭の先をわが腹に突き立て、杭もろともに打たれて水門に埋められた。村人たちはそこに堤を築き柳を植えたが、その後はまったく水の害はなく、村々の田んぼに水を引くことができた。そこで太郎左エ門の霊を神として、正保2年(1645)に祭ったのが、この社の由来である。」
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