船宿へ家の律儀は置いてゆき…
土手の伊勢屋と桜なべ中江。
戦災を免れた木造建築。
明治開業の名店で腹ごしらえしてからの吉原探索がいいですね。私のおすすめは桜なべコース♪(聞いてない)
ちなみに吉原最後の料亭&吉原で唯一残った蹴飛ばし屋です。蹴飛ばし屋は日本堤土手のかつての名物。
かつては日本橋人形町にあった吉原遊郭。
葭が茂る沼地を埋め立てて建てられたことから、当初は葭原と呼ばれ、寛永3年(1626)に縁起のいい吉原に改称。
明暦2年(1656)に日本堤へ移転が命じられ、翌3年に移転し新吉原と呼ばれました。
吉原は今も昔と同じ区画(基盤の目)になっています。
吉原大門交差点角。
見返り柳(現在6代目・昭和)です。
衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、何度も振り返った場所にこの柳があったそうです。
かつては山谷堀脇の土手にありましたが区画整理に伴って現在へと移され、また震災や戦災による焼失のため数代に渡って植え替えられています。
新吉原衣紋坂(えもんざか)。
遊客がここで衣紋をつくろう(身なりを整える)ことに由来する坂道。
吉原遊郭の入口にあり、街道から遊廓を見通せないようS字状にしたといいます。その曲線は現在もそのまま残されております。
大門は吉原の正面玄関。治安目的は勿論のこと、遊女の逃亡・駆け落ちを防止するために出入はこの大門一箇所だけでした。
現在もなおこの地は有名な高級銭湯街となっており、昼間でも営業中…よって町自体が写真を撮りにくい雰囲気に満ち溢れています(笑)
新吉原は田んぼに土を盛って作られました。 現在の吉原公園は163cmあり、その高低差がお歯黒どぶの名残とも言えます。また、この辺りには石垣の他に跳ね橋跡の階段など遊郭の遺構が生々しく残っています。
周囲にはお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる幅5間(9m)(後に2間(3.6m)に縮小)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみであり、外界から完全に隔絶されている土地。
お歯黒溝はその名の通りに真っ黒に濁っていたそう。
お歯黒溝もはね橋も防火・防犯の役に立つ一方、遊女の逃亡・駆け落ちを防ぐためのものでもありました。
一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったといいます。ブラタモリでは僅か10人ほどの太夫は教養に溢れ、時計を直す技術すら必要だったと放送していましたね。
遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙・洒落本等の題材にもなりました。また、遊女の斬新な化粧(下唇だけ緑の紅など)や着物(アイヌの模様など)や髪飾り(耳かき仕様など)を見ることを目的とした女性客も多かったといいます。
吉原が人身売買の場所であったことに間違いはありませんが、江戸文化の最先端情報発信地という文化的側面を持っていたことも見逃せません。
タモリさんも吉原について「大元は"そういうこと"だが、洗練された文化に昇華させた」とおっしゃっていました。
仲之町通りの桜は、咲いている桜を持って来て、季節が変わると抜かれました。
これは人工的な戦略で造られたバーチャルな非日常の世界。
世の中12時、吉原はまだ10時…すべて虚の世界に遊ぶのが吉原なのです。
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