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十和田湖畔にあります。
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御祭神は日本武尊。
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しばらく気持ちのいい林道を歩きます。
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この参道とは別に開運の小径もあります。開運の小径は十和田神社と湖畔(御前ヶ浜)をつなぐ火山活動によってできた散策路で、緩やかなS字カーブを描く道です。風ノ神、火ノ神、山ノ神、金ノ神、天ノ岩戸、日ノ神を祀る祠が並びます。
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十和田神社本殿へは男坂と女坂のルートに別れます。
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子宝の木。御神木の中にお賽銭をして安産・子宝を祈願します。
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手水舎。
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男坂を上ってみます。
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一般に急な坂の方を男坂、緩やかで長い坂を女坂としています。
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十和田神社は女坂の方が勾配は緩やかなれど、男坂の方が楽な気がします。
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これには理由があって、昔の男坂は現在のように整備されておらず、枕状溶岩のゴツゴツした岩が散乱しており、上るのが大変だったのです。
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現在はコンクリで綺麗に石段が整備されているために勾配はあるけれど、多少足場の悪い女坂よりも男坂の方が何か楽なんですよね。
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もちろん感じ方には個人差があると思いますが。
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大同2年 (807)、 坂上田村麿将軍東夷征討に際し、 十和田湖に日本武尊の分霊を勧請し武運長久を祈願し一宇の堂を建立。 夷賊を鎮定して後霊験高く、 旧南部藩時代には藩費を以て維持運営。 毎年代参拝礼の儀があり、 隆盛を極めました。
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十和田神社の創建は大同2年(807)、坂上田村麻呂が東夷東征の際、十和田湖に日本武尊の分霊を勧請し武運長久を祈願したのが始まりと伝えられています。その後一時衰退するも、南部氏が領主になると本領に鎮座していた白鳥の宮の分霊を勧請し再興。
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古くから天台宗と熊野信仰、十和田湖の自然崇拝との神仏混合の形態を取っていたとされ多くの修験者達の修業の場となり、恐山(下北半島)、川倉賽の河原(金木町)と共に北東北の三大霊場として信仰の対象となっていました。
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江戸時代に入ると南部藩領に属し、管轄下である五戸通り(三戸郡下13ヶ村、北郡下15ヶ村)の一之宮の格式を得ていました。南部藩でも恐山と十和田神社を領内2大霊場として位置づけられていたようです。
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江戸時代、霊山十和田に至る5つの参詣道がありました。東側からは永福寺を起点に五戸・月日山・銚子大滝を経て十和田御堂に至る五戸口道。奥瀬(現十和田市役所十和田湖支所付近)を起点に惣辺で五戸口道に合流する七戸口道。貝守を起点とする三戸口道。毛馬内を起点に大湯・白沢・発荷峠を経て十和田御堂に至る白沢道。毛馬内から小坂の七滝・鉛山峠(遥拝所)を経て発荷峠の下(生出キャンプ場)で白沢道に合流する藤原道の5つです。
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創建には十和田湖伝説の一翼を担う南祖坊の由緒も伝わっており十和田湖と熊野信仰との繋がりが伺え知れます。十和田湖が霊山として開山されたのは平安時代末期と考えられ、開山の拠点は五戸・七崎の永福寺(八戸市豊崎町上永福寺七崎神社)で、その僧侶と伝えるのが南祖坊であり、開山上人。十和田神社の右奥、岩山を登った台地(神泉苑)は南祖坊が入定し青龍大権現となったと伝える中湖と御倉半島の御室(奥院)をのぞむ神聖な場所であり、台地を下った中湖の水際に占場があります。
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明治初年の神仏分離までは額田嶽熊野山十彎寺(こうだのだけくまのさんとうわんじ)という神仏混淆の寺院であり、十和田青龍大権現(南祖坊)を祀り、聖観音を本地仏として安置する十和田御堂がありました。明治6年社領没収になるも昭和16年本殿改修、幣殿、拝殿、社務所を新築。
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それにしても何て素晴らしい拝殿なんでしょう。ずっと見ていても飽きません。
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こちらは本殿。
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熊野神社には熊野修験者南祖坊にちなんで鉄の草鞋(レプリカ)が奉納されています。子宝、縁結びにご利益あり。
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こちらも南祖坊にちなむのか蓮華経の碑。
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ここで十和田神社にまつわる十和田湖の伝説をご紹介します。
木こりの八郎太郎は仲間の岩魚を1人で食べてしまいます。木こりの掟を破った八郎は急に喉が渇き、沢をせき止め水を飲むと体が龍に変身。この時出来たのが十和田湖といわれ、それから湖の主として暮らします。
パンフレット「十和田湖伝説」より…『十和田湖には八之太郎と南祖坊の伝説が残っています。秋田県鹿角に住む若者・八之太郎がイワナを捕って一人で食べてしまいました。この掟を破ると、ひどく喉が渇きはじめ、川をせき止めて水を飲み続けました。気がつくと、川は大きな湖(十和田湖)となり、自分は大蛇に化身していました。八之太郎は嘆き悲しみ、湖の底に沈んで主になりました。一方、修験の地熊野では南祖坊が「鉄の草鞋を履き、鼻緒が切れたところを永住の地にせよ」と神様からお告げを受けました。そして、十和田湖に着いたときに鼻緒が切れました。そこで八之太郎に戦いを挑み、勝利し、十和田湖の主となりました。』
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一方、鉄の草鞋が切れた場所が神の定めた修行地との神託を受けた熊野の南祖坊は、十和田湖畔にて草鞋が切れます。その為、南祖坊は湖の主である龍(八郎)と戦います。
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八郎は8つの頭と16本の角で、一方南祖坊の経本は9頭の龍と化し、火を噴き、山を崩し7日7晩激戦を繰り広げ、ついに敗れた八郎は米代川沿いに落ちのび、秋田県の八郎潟に落ち着いたという物語。
この伝説は約1000年前の十和田湖御倉山噴火の喩えとも、南部氏の勢力拡大の喩えともいわれています。
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