清安寺。本尊は釈迦如来。もと長勝寺末寺。開山は長勝寺三世密田梵宥。開基は不詳。寺禄33・33石。
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天正2年(1574)、密田が赤石村に松源院という草庵を結び隠居所としたことに始まります。また4代住職通讃の代に、2代藩主津軽信枚の正室葉縦院が亡くなり、長勝寺の命で通讃が葉縦院の髪をおろしました。この由緒により3代藩主津軽信義が正室慶林院の生母心悦清安の位牌を同院に祀り寺号を清安寺と改めて寺領303石を寄付。なお、心悦清安の没年は寛永11年(1634)なので現在の寺号はこの時以降のもの。
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正徳元年(1711)の寺社領分限帳では、信枚が寺禄33・33石を慶長年間(1596-1615)に寄付したとあり、この時期に赤石村より現在地に移転。
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堂内にある「円通閣」の大額は文化年間に大本山永平寺50世玄透即中、勅持賜洞宗宏振禅師の筆。
津軽一統志は、開基を心悦清安大姉、開山を在庵とし、もと赤石川の上流三嶽山の下にあったとし山号は同山に由来。
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末寺として赤石村の松源庵、中野目村(藤崎町)の村庵。新撰陸奥国誌によりますと、当寺観音堂には十一面観音のほか西国三十三観音を安置。寺伝によると三十三観音は天保年間(1830-1844)弘前城下の呉服商一野屋宇三郎が奉納したと伝えます。
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佐藤尚武先生頌徳碑。佐藤尚武氏については興味ある方は自分でお調べください(笑)
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佐藤尚武氏の実父田中坤六の生家田中家は弘前藩士で田中太郎五郎の子孫。
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田中太郎五郎吉祥は津軽家家臣で天正7年(1579年)、六羽川合戦の折、主君津軽為信の身代わりとなって討ち死にし合戦の勝利に導きます。その功に田中家は津軽の功臣として嫡子田中宗右衛門に百石を加増しその館跡が田中館跡として伝えられています。
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こちらは赤倉山宝泉院。本尊は赤倉山大権現。もと隣松寺末寺。開山は隣松寺二世月寒雲鶴で開基は不詳。
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長勝寺並寺院開山世代調によりますと、最初は中畑村にありましたが、鬼沢村に移り、その後弘前城下に移転したとあり、開基年代不詳です。一方、曹洞諸寺院縁起志では、初めから鬼沢村にあったといいます。正徳元年(1711)寺社領分限帳では、慶長年間(1596―1615)鬼沢村から現在地へ移ったとあります。
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寺伝によれば当院は岩木山の北東中腹赤倉沢にあったとされ、蝦夷征伐にきた坂上田村麻呂の開基と伝えます。津軽俗説選によれば、鬼沢村より移ってきたために俗に鬼沢寺とよばれ、鬼沢村の鎮守神が鬼であるため、節分には豆をまかず、五月には菖蒲を葺かないとします。
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新撰陸奥国誌によりますと、赤倉の洞中に鬼が住み、鬼沢村の農民に用水を確保しました。その流水は数千町歩の田に注いでもなお余り、水源を宝泉といったことからこの寺を赤倉山宝泉寺としたとあります。鎮守堂に薬王菩薩を安置。
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