鍛冶町と申しましたが大体鍛治町の近郊とお考えください。
天保3年津軽弘前城之絵図に町割りされています。
慶安2年の弘前古御絵図では「新かち町」と見え、鍛冶27軒、桶屋1軒、扇屋1軒があります。この町名は当時本町が鍛治町と称されていたことに対すると考えられています。
ビル自体は大きいのですが上階は行き止まりが多いです。
寛文13年の弘前中惣屋敷絵図には下鍛治町として町屋28軒、延宝6年の弘前町方屋敷割には「シタカチ丁」と見え、町屋27軒と武家屋敷1軒があります。
下鍛治町の名称は宝永2年の城下町割りによってそれまで長鍛治町・横鍛治町と呼ばれていた本町ができるまで続いたと言われます。
明治初年の国誌によれば町中に小橋があり、鍛冶職と桶屋が多いと書かれています。
昭和10年古地図にも残る坂本竹材店。
こちらも昔からある田沢染物店。
あっ、何かがいる!!
顔に落書きされていないのが奇跡(え?
昼と夜とでは見え方が全然違いますねぇ。
そして鍛治町はやはり抜け道。
数年前に閉鎖された抜け道。
本町~鍛治町~新鍛治町の主な抜け道。
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