禰宜町は城郭の東北に位置します。北には大久保堰が流れます。
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寛永末の津軽弘前城之絵図には家数27があり、八幡宮の禰宜・社人の屋敷が並んでいます。八幡宮への参道道として門前町を形成していました。東端南側に制札場があり、その向かいには白山宮がありましたが後に八幡宮の相殿となります。
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散策していたらかつての大坂屋社宅がありました。
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東南には山王権現(山王神社・山王社、現在は大杵根神社、元禄10年建立・1697)がありましたが、田茂木町が成立するとそちらへ所属替えとなります。
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田茂木町は通称山王町と呼ばれます。山王神社の神木田茂の木(槻の木)にちなんでつけられた名称。御神木の田茂の木は元文4年に倒れています。
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明治22年以降は旧禰宜の屋敷はほとんど建て替えられて、八幡宮への参道も北横町の参道が発達したことで門前町としての性格も失われました。
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大杵根神社(山王神社)。弘前市田茂木町。ちょうど禰宜町との境くらいにあります。
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延宝5年(1677)の弘前惣御絵図には既に山王社と見えますが、永禄日記によれば元禄10年(1697)に禰宜町の東南に山王権現が建立されたといいます。他の調べでは元禄9年ともあり、僅かに差異があります。それ以前の言い伝えでは津軽信枚が青森市野内山王林の山王堂の分霊を遷したとも云われます。
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山王町はかつては田茂木町山王地区でした。この南部の山王地区は急速に宅地化し、昭和60年に田茂木町山王地区から山王町として独立しています。 よって現在の山王町に大杵根神社(山王神社)があるわけではないのです。
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鳥居が見事に壊れていました。ってことで鳥居はありません。
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御祭神は国作大己貴命、事代主命、天穂日命。
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青森県神社庁より…「大同2年征夷大将軍坂上田村麿勅命を奉じて、北陸より陸奥の東夷を討伐の際、賊の容易に退治し難きを知って、当神社を勧請し、神威を以って征伐せんことを祈誓し給ふといへども詳かならず、其の時、大杵根神社と称し奉る。
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元禄9年津軽藩主信政公の時今の地に社殿を建て安置し奉る。以後代々の藩公藩費を以て祭費営繕費を支出している。明治6年廃社となるが、時の神主長利仲聴の念願により明治8年再建し私祭として無格社となる。明治11年一般衆庶の参拝願出の趣許されて普通の神社となる。」
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かつては相当歴史深い神社かと思われるのですが、現在はかなりひっそりとしていますね。
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神額発見(笑)
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岩木七神社」といって坂上田村麻呂による創建と伝えられる七神社(横内の妙見宮(大星神社)、浪岡八幡宮、猿賀の深沙宮、弘前の熊野宮(熊野奥照神社)、岩木山神社、西目屋の毘沙門天宮(鹿島神社)、乳井の毘沙門天宮)を結ぶと巨大な北斗七星が現れるというものがあります。
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更に弘前市内にも北斗七星を象徴する寺や神社の並びがあり、この大杵根神社は弘前七神社(他、神明宮八幡宮熊野奥照神社東照宮住吉神社稲荷神社)の一つ。
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標柱より…
【禰宜町(ねぎまち)】
弘前城築城とともに町割りが行なわれ、弘前総鎮守八幡宮の神主(禰宜)と、別当最勝院の僧侶たちが多く住んだことから、町名になったといわれています。八幡宮への参詣道として、門前町を形成していたところです。
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【田茂木町(たもぎまち)】
元禄年間(1688年~1704年)に、家臣の城外移転のために町割りされました。元文4年(1739年)8月の大風で、町内の山王神社(現大杵神社)の御神木の田茂の木が倒れたという記録があり、町名はこの木に由来するといわれています。
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