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藩政時代初期から染物屋の町として町割りされ、百軒以上(145軒ほど)もの染物屋が建ち並んでいました。当時は、染物といえば藍染めであり、染物屋のことを「紺屋」と呼んでいたことから、町名となったといわれています。
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この呼び名は江戸でも同じですね。江戸では「こんや」ではなく「こうや」と発音しますが。弘前古御絵図では「かうや」となっています。
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西濠から大久保堰が流れます。
明治期建築の山口製畳所。
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亀甲町と紺屋町を結ぶ亀紺橋。
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有名な平尾魯仙は紺屋町の魚商小浜屋に生れています。また寺山修司も紺屋町の出身として知られています。
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父寺山八郎が警察官として、弘前警察署臨時紺屋町派出所に勤務していた時に生まれました。
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寺山八郎は歩兵第31連隊にいた秩父宮雍仁親王の警護をしていたそうです。
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ちなみに生まれた場所がこの地点(弘前市紺屋町35番地・下記地図のピンクの場所)。
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向かいはこのような感じ。
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寺山修司本人は「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」と言っていますが(笑)
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こちらは昭和8年頃に建築された旧弘前市消防団西地区団第四分団消防屯所。
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今年新しく改築されて、中も外もかなり綺麗になりました。
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こちらは改築中の様子。
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高さ14.3mの火の見櫓が特徴的な洋風建築。
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紺屋町も少しずつ街並みが変わりつつありますね。明治35年開業の佐々木医院なども洋風建築で有名な建物でした。
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旧佐々木医院。
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さて、今度は江戸時代まで遡りましょう。
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北端には桝形が設けられ、大札場が置かれました。桝形の東に御船小屋があります。元禄3年に京都から高森太郎兵衛を招いて織座を作ったとされます。これが元禄14年織物会所に発展したと言われます。
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享保7年(1720)の御国日記によれば、織座や報恩寺から藩主信寿公はねぷた(袮むた・灯の器)を見学していたそう。ねぷた祭りのルーツであるねぷた(袮むた)流しは紺屋町から春日町へと通っていきました。時間にしてAM11~PM8時…相当な灯籠の数だったと予想されますね。当時のねぷたは子供たちの年中行事で、後に祭りへと発展していきます。この背景には藩主信政時代に京都から呼ばれた野元道玄と、道玄が絹織物等を広めるべく京都から織座に招いた80~90人という職人が影響しており、京都の盆燈篭のため、盂蘭盆に燈籠を門前に飾り、これが袮むた流しと時期が重なったため、織座の人たちはこの燈篭を持ち歩いて灯火としたそう。
なお、織座は江戸の末期には廃止されました。明治初年の国誌によれば紺屋町には「造酒織職魚店等あり」とありますが、それも明治22年以降はほぼ姿を消しました。
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旧織物座跡は菊池別邸となり、昭和10年から1年4ヶ月間、歩兵第31連隊の大隊長として勤務した秩父宮雍仁親王の仮邸となります。同22年には消失し、同29年に聖母被昇天修道院、同31年に弘前明の星幼稚園となりました。
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明の星学園には現在も元菊池家別邸庭園として一部が残されています。
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大石武学流の定形的池泉庭園。
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樹木の高低を巧みに配して庭に奥深さを見せています。
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