裸参り(旧正月一日氏子青年団裸にて〆縄奉納)として有名な鬼神社です。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTとアベフトシ氏とは無関係。創祀年代は不詳。御祭神は高照比女神、伊奘那岐大神、大山祇神。
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戦国期は鼻和郡鬼沢。江戸期から明治22年鬼沢村。享保4年(1687)検地水帳に権太夫抱えの鬼神社地と白山堂、宝永元年(1704)の社堂境内記では「鬼子母神社」とあります。
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社伝では、坂上田村麻呂が蝦夷討伐にあたり、岩木山本官の高照比売命の霊験をうけ、岩木山北麓に厳鬼山西方寺観音院を創立した際に合わせて勧請した鬼神宮が後に現在地に移転。明治6年村社、同14年郷社。
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以下は境内にあった由緒沿革。
延暦年中坂上田村麿東夷征討の勅命を奉じ東国に下った時、岩木山頂奥宮鎮座 顕国魂の女高照比売の霊験を蒙るに因り、岩木山麓に社宇を再建したという。其後大山祇命を配祀すと伝う。明治十四年郷社に列せられた。
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一の鳥居の神額の「鬼」の字に点(ノ)がありません。
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かつて存在した鬼には角がなく、又、鬼は土地を豊かにし助けてくれる存在であり、その優しさの象徴として鬼に角をつけていないとか。これは撫牛子八幡宮のわらべ唄の話にも通ずるものがありますが、製鉄の古代遺跡が多数見つかっている地域であることから渡来人、修験者という説が一般的のよう。製鉄民族を鬼としたのでしょう。黄金山(▲168.3)が近くに鎮座しているのも頷けます。ちなみに額自体は新しく見えますが、本殿に保管されている近衛忠煕から奉納された額をコピーしたものらしいです。
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境内のすべての「鬼」の文字に角がないわけではなさそう。
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この地区では2月の節分の際、鬼に失礼がないように「鬼は内、福は内」と言うそうですが、実際には元々この地区では節分という風習自体がないそうです。 
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鬼神社の参道は非常に変わっていています。入口から入り、川のところで綺麗にUターンして拝殿正面へ。
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赤倉山に向けて方角を変えているのかと思ったのですが、北西7kmほど先にある巌鬼山神社の方角に合わせて作られているようにも感じます。但し!!私方向音痴ですから(笑)
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赤倉山の鬼神を祀る鬼神社は明治6年まで「赤倉山鬼神大権現」として呼ばれており、巌鬼山神社より遷座したものと伝えられています。天保11年建立の鬼神大権現の石碑。
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春日神社。
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ちょうどU字型の折り返し地点にあります。
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こちらも年代不詳。
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この地に遷ったのは昭和47年4月8日とのこと。
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川があり、池があり、池には弁天様があり、そして弁天様の横は広大な田園となっています。
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16.4
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卍がついている鳥居。
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神紋がまんじ巴。
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理由は不詳らしいのですが、津軽藩との関連であることは確かでしょう。9代津軽藩主寧親との係りでしょうか。
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様々な狛犬たち。
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手の甲に玉を乗せています…器用。
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向かいの狛犬はそれを見て…「おぉ!すげぇ~!」という表情(笑)小さい狛犬もかわゆす…。
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馬に…
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乗ってくださいということでしょうか(笑)
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昭和53年建立の狛…魚。
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身がたっぷりで脂がのっていそうな狛魚です。
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昭和6年建立の青眼の迫力ある狛犬。
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拝殿。
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鬼瓦に鬼!
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角があります…っていうか結構怖い表情。
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扁額の鬼は角がありません。
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拝殿軒下には鉄製農具がたくさん奉納されています。
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草鞋も鉄製。
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本殿には御神体である鉄製の鍬形(大人が使ったとされる・千年前の作)や鶏遊戯の図帖が保管されています。もちろん見ることはできませんが。
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本殿の狛犬は外側を向いてます。
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ここで弥十郎の伝説の概要を紹介したいと思います。
昔、弥十郎という者がいつも赤倉沢へ薪を採りに行ってました。すると大人(オオヒト・鬼)が現れて相撲を申し込んできました。弥十郎は驚きながらも相撲をとりました。その夜、弥十郎が寝ていると外から大きな音が聞こえてきました。外を見てみると大人からの礼として、山のような薪が積まれてあったとか。それからというもの弥十郎と大人は仲良くなり、毎日相撲などをして遊ぶようになりました。
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ある日、弥十郎がしょんぼり顔で山へ行くと、大人は心配そうに理由を尋ねました。弥十郎は田んぼに水がなくて困っていることを大人に打ち明けます。すると大人は、自分にまかせて欲しい、但し仕事している姿は見ないで欲しい旨を伝え、山の奥に消えたそう。
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翌日外に出てみると、田んぼには多くの水が流れていました。大人が赤倉沢の上流、余魚沢から一夜にして堰を造り水を引いてくれたのです。これを「逆さ堰」とか「鬼神堰」と呼ぶようになりました。
村人は大喜びでしたが、その後、弥十郎が大人に会いに行っても見かけなくなったと言います。
堰のおかげで、村は一月雨が降らなくても水不足にならず、一月雨が続いても洪水にはならない素晴らしい土地に恵まれました。村人たちは大人を鬼神様として祀るための神社を造り、名を鬼神社とし、大人が堰を造った際に使用し残していった鉄製の農具をそこに祀ったそう。こうして鬼が造った堰のあるこの地域は鬼沢と呼ぶようになりました。
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ちなみに菅江真澄は次のように記しています。
まずは大石神社、赤倉大権現から山を途中まで登った際の記録。
「岩木山の三つの峰のうち、岩鬼山(1456m)とて、この赤倉が岳をあがめまつっているが、ここには鬼神もかくれすんでいて、時には怪しいものが峰をのぼり、ふもとにくだるという。その身の丈は相撲の関取よりも高く、やせくろずんだその姿を見た人もあるが、それを一目見ても、恐怖のあまり病いのおこる者がある。また、それとなれしたしんで、兄弟のようになかよくなり、酒肴などを与えると、さっと飲み食いして、その返礼として山の大木を根こぎにしたり、あるいは級の木の皮をはぎ、馬二、三匹につむほどの量をかかえて持ってきてくれたなどと、案内の者が頭をよせあい、小声でひそひそとささやきあっている。その妖怪をおおひと、やまのひと、あるいは山の翁(おつこ)とよんで、山をわけて道案内するこのたくましい男たちも、おそれわなないて、すすんで行こうともせず、このような奇怪なことばかり語り合っていた。もっとも人の行かない山奥には怪しいものがあらわれる例もあるのであろう。また、山都、山姑などというものもあると言われているので…(以下省略)」
次に岩木山山頂からの記録。
「北の麓には鬼沢村の鬼神の祠があり、そこに五尺あまりの鍬がある。これは、ここに田をつくろうとして水乞いの祈りをしたとき、一夜のうちに山の水が逆に流れでて、山田にもせきができてはいった。そのひいたあまりの流れは赤倉に落ちてゆき、行方はどこにも知れなかったという。十腰内の観音の林、大石大明神などの神社もあった。すべてこの岩木山の東面は、百沢、高岡、山の尾は弘前へとさがり、岩木川がめぐっている。西方は鰺が沢、赤石の村々、中村の部落があり、峰の滴りは赤石川となって海に流れおちる。およそ麓をめぐれば三十五、六里、村里は七十余ある。まことに百の沢の水が滝となって落ち、淵となり淀み、流れでてゆくので、百沢の名があるのだろう。」
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