当寺は、常陸国(茨城県)那珂郡小場の城主、小場三河守義実公の供養のため、弘治元年(1555)、同義忠公が建立、開基僧は弁誉上人。
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現在、茨城県那珂郡大宮町小場に「字一心院」の地番があり、当寺跡地として残っています。
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佐竹氏の秋田遷封により、慶長16年(1611)当寺もこの地に移りました。
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元和3年(1617)大館初代城代小場式部大輔義成公(のち3代城代義房以後佐竹姓を名乗る)が再興、現在地に再建。
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この時上人は常陸国から来た3代良円上人で、当一心院の開山となりました。
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しかし、この堂宇は、明治元年(1867)戊辰の役の戦火で焼失。
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のち明治13年(1880)に仮本堂が建立され、さらに85年経った昭和40年(1965)に新本堂完成。
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茨城に一心院の地名が残り、大館には一心院南という住所はありますが、ここは谷地町なんですね。
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ここにあの名将、真田幸村(真田信繁)の墓があります。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣で亡くなっているはずの幸村の墓が大館市に…。
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一心院過去帳や子孫とされる飯田家に伝わる信濃屋旧記等の古文書によると、天王寺表で討死したのは、実は幸村の身代わりの家臣「穴山小助」であったと云います。幸村は薩摩に落ち延び、信濃国から来た商人「信濃屋長左衛門」と称します。
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(写真右が古来の墓とも言われますが風化しており詳細は不明。左は昭和28年の313回忌に建てられたもの。)
そして秀頼の菩提を弔う為に諸国を巡った後、寛永2年(1625年)から四女御田姫の嫁ぎ先の実家佐竹家に庇護され大館に住み、寛永18年(1641年)に75歳で没したという伝説があるのです。
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伝説自体の内容も様々で、この真田幸村の逃亡・生存説についてはネットで色々と出てきます。伝説なのか真実なのかはわかりません。弘前の宗徳寺に石田三成の次男石田重成の墓がありますしね。真田幸村伝説も真実かも知れませんよ?
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(一心院の墓石には「信濃屋長左衛門事 真田左衛門佐幸村之墓」と刻まれています。)
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宗徳寺と豊臣の墓の記事はこちら。
長勝寺・宗徳寺
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いずれにせよ真田幸村の人気がそれほどであるってことでしょうね。
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※幸村の墓は長野市松代町の菩提寺長国寺、京都市右京区の龍安寺境内の大珠院にもあります。
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再訪記事:『一心院(大館市)

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