旧相馬村の岩谷不動尊(岩屋不動尊)。
道路沿いにこのように見えてきます。岩の所為でより小さく見えますね。
弘前から向かうと沢田神明宮より少し手前。
「沢田神明宮」の記事はこちら。
この祠の前に一対の石燈籠がありますが、これは尾太銅山の三上兵助が安永4年(1775)4月に寄進したもので、この時代は尾太銅山が藩の直営で最も栄えたときで、この川岸にあった道は銅を運んだものと思われます。ちなみに尾太岳山頂にも同じ石燈籠が置かれています(崩壊しています)。
寛政9年(1797)に菅江真澄がこの岩谷不動尊を訪ねたとき、『都介路迺遠地(つがろのおち)』という本の中に「作沢川の高はしとて、危ふきひとつ橋をわたり、山路はるばると岩谷の不動尊とて流れの岸に堂あり、高さ知られぬ岩の上に木を横たえて鰐口をつり上げ、綱を下げたり」とあり、この当時は道はもっと下の対岸にあったものと思われます。
ちなみに川の向こうは参詣森(209.6▲)と言います。現在の岩谷不動尊は写真でもわかるように岩に吹きつけを行っていて菅江が訪れた頃とはかなり違う雰囲気ですが、石燈籠は菅江も見たことでしょう。下記写真は当時作沢川の対岸から描いたと思われる岩谷不動尊。
また昭和60年には県学芸員福田友之氏が、縄文土器を採集して、洞穴が縄文遺跡であることが判明しています。
すぐ隣に鳥居がありました。
苔だらけの石段を上って行くと…
大きな岩肌が見え…
山の神が祀られていました。
大山祇大神のようです。
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