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大同2年 (807年) 坂上田村麿将軍、大野という地に弁財天を勧請、弁天宮堂社を建立の上待臣を神主とする。寛文2年(1662年)現在地に遷座、平賀庄6ヶ組(猿賀組、大光寺組、尾崎組、大鰐組、和徳組、堀越組)により社殿の造営、供米が奉納される。
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寛永4年(1707年)信政公門弟の士族により末社春日宮が建立。明治6年胸肩神社と改称し春日大神を合祀。弁天さまと呼び親しまれ、津軽一円に広く崇敬されている。
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山道町から富田町に至る東西の道筋の町南は富田新町、新品川町(現御幸町)に接し、町内を釜萢堰が縦貫します(下の地図は昭和10年のもの)。
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寛文13年弘前中惣屋敷絵図では侍丁とあり、古くは土手後町あるいは土手後新町と称していました。延宝5年の絵図では町割りが完成しています。町名の由来は名主長左衛門の苗字によるとされていますが確認はできず。
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 元禄8年の飢餓の際には当町南の野原に大穴を掘って餓死者を埋めたそう。元禄年間には小人町の御徒屋敷が当町へ移転。
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享保4年には町屋90軒、武家屋敷3軒、社家山辺庄太夫、覚勝院屋敷があります。覚勝院(慶安2年正学坊、寛文13年学勝院)は覚仙町の屋敷が御用地となり代替地を給されたもの。
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宝暦6年の富田町支配屋敷改大帳には武家屋敷若干のほか町屋110軒と弁天社地があります。弁天社は「安政2年神社書上帳」に胸肩宮とあり、大同2年の創建と言われます。
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国誌によれば胸肩神社の末社に春日神社と稲荷神社と記されています。
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弘前では人気の宵宮の一つとして知られていますね。市内の宵宮でも出店はトップクラス。更には津軽神楽、松森町獅子舞演舞、纏振り等イベントが行われとても賑やかです。面白いのは弁天さまの宵宮には雨が降るという伝説ですね。
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龍神宮です。
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龍蛇神。
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読んで字の如く龍と…
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蛇。蛇かわゆすw
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水をかけて頭をなでなでしてください。
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古くからの湧水。大和沢川の伏流水で、最上神社を竜の尾とし、こちらは竜の頭となります。昔から美人になる水と言われているそう♪
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力石「明治二巳巳年工藤巳之吉廿五才 力試石目方五十二メ目」、「四二メ金作 豊三郎」。 造り酒屋(高島屋)の若衆 達が昼休みに酒絞り石を持ち上げる競争をしていたそう。それを見ていた高島屋の主人が一番重い石を持ち上げた工 藤巳之吉(弘前市取上。当時25歳)に「その石を弁天様まで運んだら年月日と名前を彫ってやろう」と言い、巳之吉は首尾よく運んだので約束通り字が切付けられて奉納されました。また、胸肩神社では過去には奉納相撲や米俵差しが行われていましたが、現在は行われていません。
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思えばこの辺りには昔小川がいくつか流れていました。
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ここが釜萢堰になります。
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小川っていう程のものではありませんが、昔は本当に結構な勢いで水が流れていたそうです。子どもたちは色々な物を流して遊んだりしていたそうで。
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今は残っている部分と暗渠とはっきり別れています。昔、それを辿ったら三岳公園まで着きました。今は三岳公園の池も一ヶ所だけに水があり、あとはほとんど水が無く、空しく橋だけが残っていますね。
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近くにあった地蔵堂。
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