大仏ヶ鼻城と呼ばれる大仏公園の丘は城址です。
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中央の大きな窪地が舘趾、平川を望む東は物見台、南には土塁、標高97.4mの西の頂が本丸趾で本丸の下に二の丸、三の丸があります(推測)。
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郭内を走る路線。
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大仏院(天正5年銘の十一面観音座像が安置されています)にかけて石仏群があり、順番に回れるようになっています。
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全仏像をまとめてみました(←まとめるな)。
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昔は現在の石川公園の崖下に平川が流れ、西は緩斜面で平地となり、南は山峰が続いていました。
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石川十三楯と呼ばれる城が南部氏により築かれて津軽石川地方を支配。
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その本拠地がここ石川城(石川館)でした。
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城は建武元年(1334)岩館曽我氏によって築かれ、南朝側の拠点でしたが、天文2年(1533)南部高信(石川高信、三戸南部23代で安信の弟)が入城、津軽の本拠となりました。
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南部一族の大浦為信は元亀2年(1571)に石川城を攻略。
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為信は板垣兵部を城代に配しましたが、兵部は関ヶ原合戦に際して尾崎喜蔵、三目内玄蕃らと堀越城を攻めて謀叛を企てるも滅亡。
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城も慶長16年(1611)に弘前城築城に際し、堀越城等と共に廃城となりました。
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崖下の東と南に洞窟があります。弘前城へ続く抜け道との都市伝説が昔から残る洞窟。
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実際に洞窟となっているのですが、その用途は敵を迎え撃つために掘られた穴と言われています。昔はもっと穴があったのでしょうか。現在もなお謎の多い丘です。
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崖下の穴は埋められていました(埋められた形跡は残っています)。昔は地元の子供たちも普通に洞窟内で遊んでいたようで、崖上の穴まで繋がっていて危険なので埋められたのでしょう。
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実際に洞窟内に潜入した凄い人がおりましたのでリンクを載せておきます。
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この方の調査でも昔の子供たちのお菓子やジュースのゴミがたくさんあったそうです。っていうか世の中には凄い人がいるものですね(笑)
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公園内の桜は大正12年に町制施行を記念して染井吉野10本が植えられたの始まり。
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紫陽花や紅葉も素晴らしく、四季折々弘前市民の行楽の場として親しまれています。
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昭和天皇御製和歌(海部俊樹総理書)の碑などもあります。
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大洪水の際に地元を救った丘でもあるんですね。
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藁松明を崖から投げ落とす松明明という奇祭も行なわれていました。
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