黒石にあります法眼寺(ほうげんじ)。
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宝厳山法眼寺は延宝8年(1680)南宗禅師により温湯村に開基後、元禄4年(1691年)に三代領主の内意により、現在地(山形町)に移されました。
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法眼寺は県重宝が2、市民俗文化財1、市有形文化財2の合わせて5つが文化財指定されている宝庫。
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本堂は明和6年(1769)に仮本道として再建。
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津軽の黄檗宗(おうばくぜんしゅう)総本山の寺院は、法眼寺と同じく黒石市温湯にある薬師寺に二ヵ寺のみで、法眼寺は東北では有名な黄檗宗のお寺となります。大きな茅葺屋根をもつ正面妻飾の架構は実に壮大。
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法眼寺には三体の不動尊があり、そのうち一体には文政3年(1820)2月に石川忠右衛門、忠兵衛が寄進した剣を持っています。剣は全長35.5cmの両刃で江戸時代に名刀匠といわれた源正義の作品。津軽第二十六番札所の十一面観世音が三十三観音とともに安置。
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開山堂は南宗元頓を祀った一間四方の小規模な建物であり、当時は赤御堂と呼ばれていました。内部には元頓和尚の名が刻まれた卵塔が安置されています。正徳3年(1722)に建立され、法眼寺境内で最古の建物。
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鐘楼堂は延享3年(1746)に建立。
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私が愛読する菅江真澄の「津軽の奥」では次のように書かれています。
「享保年間(1720~30頃)、この寺の吊鐘を、廬山という禅師が江戸で鋳させて、それを浪速の港へ船につんで送り、またそこから、このみちのくへ船積みして送ろうとした。とちゅう、秋田の沖に近くなったとき、大波にあって船が沈没し、吊鐘も失せてしまった。(中略)常陸の国鹿島郡上幡木村の下浜という所の地引き網に、海藻やいろいろな小貝がたくさん付着した怪しい物がかかってきた。(中略)吊鐘だったのでおどろきあきれた。(中略)この津軽のくに青森港に運ばせたのが安永の末(1780)のことだという。(中略)寺にはそれまで鳴らしていた吊鐘があったが、それは同じ宗派のぬる湯の寺にかけて、海から上がってきた鐘は、立派な鐘楼を建てて今も吊ってある。」
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菅江はこの鐘を見るために寺を訪れたと言います。
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唐風(からふう)造りで、梵鐘(ぼんしょう)には棟方志功画伯が描いた三尊仏が刻まれています。
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昭和45年の鐘楼堂。
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寛保元年(1741年)に建立されし山門は、本堂よりも古く、一間一戸の四脚門で、前後軸唐破風付(じくからはふうつき)茅葺の構造。
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細部の彫刻などには建築当時の意匠が残されていて、その姿はとても美しいものです。
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鐘楼と開山堂の間にある西国三十三カ所巡礼の「砂踏乃碑」は寛延4年(1759)建立。西国三十三所巡礼の碑としては県内唯一の貴重なもの。黒石の西村四郎兵衛の妻が西国霊場に出かけた様子が記されており、砂を持ち帰り、袋に入れて行けなかった人に御利益が得られるよう踏ませています。
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「寛延三庚午天四月下院、西村四郎兵の妻、恭しく西国三十三所を巡礼して、其の堂下の土地を手に持ち来たりて、此の盤石の下に埋却して、永く人をして勝縁を結ばしむ。若し人発心して一踏一礼すれば、則ち寸歩も動かずして既に西国三十三所順礼の功了あるものなり。」
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法眼寺の乗り駕籠。
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宝厳山法眼寺(野呂徹宗住職・山形町)が所有するこの駕籠は、全体が黒漆塗りの4人で担ぐ型の乗り物です。約4.3mの担ぎ長柄を備えた本体は、高さ69㎝・幅10cmで、長さが約75㎝。材質は桐と推定。駕籠の左右は引き戸の出入口で、その上部には紙張りと紗張りの二重障子が付いた小窓。また屋根の指し掛け部分には日よけの竹編みすだれに加えて、雨よけの油紙も施されています。一方、内部は板張りの上に布を張った二重構造で、ひじ掛けや背もたれを設置。前部の小窓には当時としては珍しいビロード布や金具を使用。
江戸時代中期から伝わる「仏具施主帳」に『享保15年(1730)乗籠一張 黒石加藤権七』と記載。寄進者の加藤権七は法眼寺の開基に尽力した加藤武助・勘兵衛(初代)の一族と思われます。寺伝によれば、この駕籠は、黒石津軽家への伺候や黒石町内の寺院合同仏教行事への参向など公用に限って使用されてたそう。
明治以降ほとんど使用されることなく保存。昭和60年頃に漆の塗り替えと畳部分の張替え等の補修。270年を経た今も原形の保存状態が良く、江戸時代中期の格式を備えた由緒として市の文化財に指定。
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