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旧岩木町の植田地区西方にあります。真言宗智山派、愛宕山勝寿寺と号します。津軽為信が浅瀬石城攻略を果たした際に京都愛宕山から愛宕大権現を勧進し、その別当寺として創建。御本尊は勝軍地蔵菩薩。「愛宕山勧進記」(慶長7年)によりますと、京都の仏師五条大弐作で、為信が奉納した絵馬には同年3月に開眼供養が行われたことが記されています。橋雲寺は創建以来藩士の保護を受け、慶長14年には二代藩主信枚から寺領100石の知行を与えられました。弘前城築城の際に現在地に遷されており、寛永3年には領内の主要寺院として百沢寺などとともに真言五山に列せられ、その後も歴代藩主より知行目録や寺領宛行状が発給されました。同寺いはその他にも弘前藩の宗教政策を知り得る多くの資料が現存しているそうです。また、貴重な宝物や絵馬も保管されており、四代藩主信政寄附と箱書きのある高麗焼烏皿などは藩主家との関わりやその信仰の厚さを示すものとなっています。絵馬は上記の為信奉納の絵馬のほか、慶長14年、為信の新参持である符馬(府間)與左衛門の奉納したものなど、慶長年間から近年に至るまで多数の絵馬が所蔵されています。明治期に至り、一時的に山号を正光院としましたが、後に元の山号である愛宕山へ復し、山頂の奥院を愛宕神社としました。
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津軽一代様・辰巳です。
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藩祖為信が津軽平定の後、最勝院(賀田)五世、眼尊上人に相談し、慶長7年(1602年)に浅瀬石の高賀野山に愛宕大権現を勧請し、祈願所としたのが始まり。
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為信は慶長5年、関ヶ原の合戦に出陣し大垣城を攻めた際、向こうにあった愛宕様に戦勝祈願をかけたところ小軍勢でありながら勝利をおさめたので、寺僧に乞うてもらいうけてきたのが愛宕山大権現の勝軍地蔵(大仏師大弐法眼作)です。
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勝軍地蔵は高賀野山に安置されましたが、慶長14年に二代藩主信枚により愛宕山山頂に移されました。
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新編弘前市史岩木地区資料編にて、愛宕山橋雲寺の勝軍地蔵の御神体のカラー写真を見ることができますよ。勝軍地蔵の御神体は素晴らしいものでした。
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津軽歴代藩公祈願所だったこのお寺は、津軽十景のひとつ。
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大正時代の勝軍地蔵の縁日の様子。
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直径1m以上の老松・杉がうっそうと生い繁り、この静寂の森から響き渡る凡鐘の音が、古えの趣を感じさせます。コケをむした石段は美しく、涼やかなたたずまいを見せます。
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山頂までの道のりは石段の坂を上って行きます。
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菅江真澄は弘前から熊島、高屋を通り、八幡を経て植田の部落に。そしてこの坂を上りました。
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『坂のかたわらにある橋雲寺を新たに造りかえるというので、山の大杉などを伐りたおしているが、その枝葉の先を折って、伐った木の根株の芯ごとにさしてあった。これが「本末をば山の神に祭りて」と書き記されている古くからの風習で…』などと記しています。
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山頂にあるのが愛宕山大権現でその別当が愛宕山橋雲寺。
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弘前の天満宮は愛宕山橋雲寺から菅原天神を移建したもの。津軽信政の生母久祥院による勧請。
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境内には奥之院をはじめ、稲荷祠堂、延命地蔵尊堂、三十三観世音、護摩堂(明治14 年9月9日に明治天皇が東北地方御巡幸の折、豪商金木屋呉服店に宿泊される際に邸内に新築された御殿を移築したもの)があります。
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あっ、倒れそう!
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あっ、倒れてしまったのもありますね。
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たぬき様!?
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(( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
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