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江戸初期に各地に東照宮が造られましたが、弘前の東照宮は早くに勧請した東照宮で、1617(元和3)年、2代藩主信枚が弘前城本丸に勧請し、後に現在地へ移されました。当時6ヶ所にしか認められなかった東照宮を津軽に勧請されたのは凄いことです。御祭神は徳川家康公、天照皇大御神。
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東照宮と薬王院は城の東にあり、ちょうど土淵川と階堰(堀川)に挟まれた地です。
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勧請にあたっては、信枚の正室満天(まてひめ)姫が家康の養女であったため、親藩に準ずる家柄として幕府から重視されたわけです。
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正面の向拝が建物と同じ幅に造られ、寛永時代の特色を備えた3個の美しい蟇股(かえるまた)を配しているのが特徴。県内の神社建築の中では屈指ものです。
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外観は素木造りで簡素に見えますが、鬼板や妻飾の蟇股に彫られた葵紋が由緒を色濃く表現しております。
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しかしご存知の通り、現在は…
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社務所や昔弘前社協等があった建物も無残な姿に。ここで結婚式をした人も多いでしょう…。
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非常に歴史深い東照宮…特に弘前の東照宮は津軽の歴史を語るに欠かせないものですが…
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このままでいいのでしょうか?
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関ヶ原合戦で徳川家康に敗れた石田三成の遺児石田重成は津軽に逃亡し杉山姓を名乗ります。兄は源吾、妹は辰子。都会の洗練された雰囲気を持っていた辰子(辰姫)は7つ上の信枚の妻となります。相思相愛だったと言います。
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ところが幕府は本州最北端に位置する津軽を防衛上、はたまた豊臣ゆかりの武士が多数逃げ込んでいた津軽を監視する意味でも非常に重視し、津軽家との絆を強固にする為、満天姫を信枚の正室へと送り込むのです。
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津軽家にとっては名誉なことです。事実、この東照宮の件に関しましてもそうですし、当時福島正則を津軽に移し、津軽家を信濃の川中島に国替えする命令が1619年に幕府から伝えられましたが、それも満天姫の威光によって国替えは行われなかったという事実もあり、津軽には大変な功績を残したとも言えましょう(転封の内示は数字こそ栄転でしたが実質は減益な上に本拠地を遠く離れなくてはならないという命でした)。
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一方で、関ヶ原に敗れた側の女(辰子)は身を引くしかなかったんですね。そこで信枚は利根川流域の大舘(群馬県太田市:当時は家康からの恩賞として頂いた二千石の飛び地でした。現在弘前と姉妹都市)に辰子を隠すんです。
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信枚は江戸と弘前を往復する途中で必ず大舘により、辰子は嫡男を産みますが、その子が5歳の時(1623年)に32歳の若さで病没します。この間、信枚の愛が衰えることは無かったと伝えられています。
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この男児(平蔵)は江戸藩邸で満天姫に養育され、後に信枚の後を継いで津軽信義となります。
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また満天姫はというと、信枚とは再婚で、安芸広島城主49万石の福島正則の嫡子(福島正之)に嫁いでいましたが、夫の死去後(色々諸説がありますが…後継者問題で正則に殺された!?そして満天姫は福島忠勝に嫁がされたと言われます。この時正之の子も身篭っていました)、19歳で実家へ戻り、その4年後の1611年に信枚と結婚します。
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この時身篭っていた子は津軽に同行しますが、弘前藩の家老大道寺直英の養子に出され大道寺直秀と名乗ります。しかし後に弘前藩主になれなかった直秀は福島家の大名家再興を謀り、満天姫に毒を盛られて殺されます。満天姫としても悲しい別れ方だったことでしょう。また、満天姫と信枚との間に生まれた男児は後に弘前藩の支藩、黒石藩のあの信英です。
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関ヶ原の戦い後、徳川家康と豊臣(石田重成)、津軽信枚と辰姫(豊臣派)と満天姫(徳川派)、そしてその子供たち…何とも悲しい運命。「満天」という名に全然相応しくないほど波乱万丈で悲しい人生を送った満天姫(津軽藩主信義(石田三成の孫)後は葉縦院と名乗る)の霊屋は長勝寺にあります。
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坂本登意顕彰碑。明治39年4月生。昭和3年に弘前市土手町に新女苑という美容院を開業した方で、日本に初めて染色技術を導入。美容院業界の刷新と発展に専念。若い頃は貧しさゆえに遊女として働いていたとか。ここに顕彰碑があるのもその絡みなのでしょうか。
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こちらの小屋には「津軽じょっぱり太鼓」があります。
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1617年東照大権現を弘前城内に勧請
1624年城内より現在地に遷座。初め東照院と称しその後岩鬼山叡平寺薬王院へ改号
1636年徳川家光が現在の社殿群に造替
1645年宮号(グウゴウ)を賜り、東照社から東照宮に変更
1869年東照大権現を薬王院から分離し東照宮と称す。薬王院は廃寺。
2007年弘前東照宮…競売物件へ…
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笹森町標柱より。
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当初は、弘前八幡宮への表参道であったため、「八幡町」と呼ばれていました。慶安年間(1648年~1652年)のころ、篠森勘解由(ささもりかげゆ)という豪傑な武士が住み「佐々森町通り侍町」と呼ばれ、元禄時代に現在のように変りました。