旧黒石城黒石陣屋(黒石城)と紹介してきましたが、今回は知る人ぞ知る新黒石城です。
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黒石市牡丹平。当時は物凄いライトアップで国道102号線からも一目でわかるほど派手な城だったそう。
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津軽家と豊臣家の歴史には深い関わりがあることから、この派手な新黒石城も豊臣の流れを組んでいるのでは?と思い調べたところ、城主は羽柴誠三秀吉でした。
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旧黒石城や黒石陣屋と同じく、黒石台地のキワにあり、南には堰が流れています。
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キワに位置する為、南側は崖であり、その道は急勾配の坂。
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街灯もなく暗い雰囲気です。
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坂下の堰沿い、はたまた堰を渡って続く道は細くて勾配もあり、この地形を利用して、未成年の自転車による進入、はたまた免許取り立ての若者による自動車の進入を防御する地形となっています。
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郭内から見下ろせばその高低差がわかりやすくなっています。
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土台の石垣部分は相当大きかったそうですが、天守閣そのものは意外に可愛い大きさだったそうです。
郭内は瓦礫が散乱しており、現在はっきりと確認できる遺構は東門のみとなっています。
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東門はその両側に小窓が付いており、中は空洞となっています。
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どのような用途で使用されていたかは一切不明。
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西門の痕跡は黒石陣屋の西門に類似し、典型的な桝形門であったことを確認できます。
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城内で使われていた畳は激しく腐敗しており、現在も人を全く寄せ付けません。
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当時の部屋は畳部屋で、脇息付きの座椅子、格子窓、更に食事は立派なお膳だったと伝えられています。
こちらは何らかの武器を格納していた箱でしょうか。
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こちらは井戸のようにも見えますが、中には江戸時代の陣傘を作る工程で出た廃棄物のような物が積まれていました。質的にはゴム製に感じました…少なくともペリー来航以降に持ち込まれた物と推測できます。
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こちらは恐らく当時の武将が使用していた兜と武器ですかね。
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確証こそありませんが、これらを用いて、現代のお座敷ゲームの定番「叩いて被ってジャンケンポン」をするには非常に危険であることは想像に容易く、以て現代のものではなく落城直前に用いられた武器であると考えて間違いはないでしょう。
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落城後しばらくはその形をある程度留めており、新たな城主にそのまま譲渡されたと聞きましたが、2008年10月20日未明、火攻めに遭って150㎡に渡り完全焼失。
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最後の城主、築城年月日…いずれも詳細不明ですが、恐らく多くの愛を生んだ城であったことは東門に取り付けれた説明文から想像できます。
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休憩3300円、宿泊4800円で庶民にも広く開放しており、羽州街道からの旅人の疲れも癒されたことでしょう。
えぇ~っと…なんか…ごめんなさい(笑)
ちなみに落城する前の写真が掲載された記事を見つけました。
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