津軽・弘前藩の支藩に黒石藩があります。
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黒石陣屋は明暦2年(1656)に津軽信英(弘前藩三代津軽信義の弟)が、甥の4代弘前藩主津軽信政を補佐したことで弘前藩から5千石が分地され旗本に列し、その信英が明暦3年(1657)頃に造営したのが黒石陣屋です。
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※陣屋とは江戸時代幕藩体制における大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、また徳川幕府直轄領の代官の住居および役所が置かれた建物のことで、一般的に3万石以下の城を持たない大名が陣屋を持ったとされます。
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実は黒石には戦国末期に津軽為信が居所とした黒石城がありましたが、弘前藩領っであったため、信英はその地には入らず東方に陣屋を造営したと言われます。陣屋は城壁が黒かったことから烏城(うじょう)の異名を持ちました。
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黒石津軽家は旗本として8代続き(6代寧親は本家を相続)、その8代目の親足の時の文化6年(1809)、新たに6千石を加増されて黒石藩が誕生し陣屋内部には藩庁が設置。しかし内実は弘前藩の統制を強く受け、黒石藩は親足以後、4代続いて明治維新を迎えます。
最後の黒石藩主(黒石津軽氏10代、津軽承叙子爵)
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陣屋敷地は黒石台地のキワ。南方は崖地でその下を宇和堰(天和3年(1683年)に掘られた人工の用水堰)、小阿弥堰(寛永年間、1643年~後20年、斎藤小阿弥太夫施工)、浅瀬石川が守ります。この姿はまさに自然の土地を利用した要塞。
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※黒石市は元の南津軽郡黒石町、中郷村、浅瀬石村、山形村、六郷村、尾上町の一部(追子野木等)を合わせて市制。中心の城下町は小さく、戦前までは周辺のほとんど中郷村に囲まれていました。南のキワも宇和堰までが黒石町で、宇和堰を越えれば中郷村でした。
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現在城址の石柱がある場所は主郭ではなく、西の郭の馬場・矢場です。陣屋中核は現在市民文化会館の敷地となり遺構はありません。
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大演習参加の将兵(大正4年10月23日)。内町と大工町の街並みが伺える貴重な一枚。
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現在は御幸公園。明治33年に旧黒石藩主陣屋の馬場跡を整備し「黒石公園」として開園。
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纒振りの後方に招魂堂が見えます。
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大正4年に陸軍特別大演習が行われた際、大正天皇が訪問されたのをきっかけに「御幸公園」と命名。現在も運動会や黒石よされ等が行われたり、黒石ねぷたの待機場所になるなど広く市民に利用されています。
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※陸軍特別大演習(10月19日~10月24日)は第八師団司令部(弘前)に大本営を置き、青森方面から侵入する北軍(第二師団、第七師団)と弘前を防衛する南軍(第八師団)が弘前の東北方で遭遇し、大決戦を行うという想定で行われました。23日は中郷村東野添で白兵戦演習終了後に両軍が黒石公園内にて講評を受けました。翌日弘前で親閲式をして終了。
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あずまや(大正4年)
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あずまや(昭和7年)。屋根が変わり、石組み、階段の上に新築。
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現在。
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オート・バイシクル愛好者による黒石モーター・サイクル・クラブはさかんにスピードや遠乗りを楽しみました。旧藩主の孫にあたる津軽益男子爵を中心としたグループだったそう。
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大正4年の招魂堂
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昭和7年の招魂堂
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現在
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