史跡津軽氏城跡には弘前城跡、堀越城跡、種里城跡があります。そして弘前城跡は弘前城跡、長勝寺構、新寺構から成っています。今回は最勝院五重塔を含む「新寺構」。
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弘前城を築いた第二代藩主信牧公が慶長18年(1612年)に城南方に造ったのが南溜池。江戸期より鏡ヶ池として親しまれていました。
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当時は池の向こうに岩木山が望め、「逆さ岩木山」を鏡のように水面に映し出していたそうです。
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南溜池は現在弘前大学医学部のグラウンド。
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寺沢川をせき止めて造られました。
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平常時は人馬の水練の場として使用し、戦時には池の土手を崩し、土淵川と繋げることで巨大な濠として東と南の防衛に役立つよう計画されていたのです。沼田面松斎の意見を用い、四神相応(陰陽道)の地として高岡を新城の地に選びました(東に青龍神が宿る川、南に朱雀神が宿る池、西に白虎神が宿る道、北に玄武神が宿る山)。南の朱雀神が宿る天然池が存在しなかったために造られたのが南溜池です。古地図では「馬場」と「茶店」という文字が見てとれます。茶店の名が「夕涼茶店」…何か素敵ですね。秀峰岩木山、それを映し出す鏡ヶ池、咲き誇る桜、五重塔…丘だったので風通し・見晴らしもよく…最高のシチュエーションでお茶する当時の人々の情景が浮かんできますよね。
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新寺構史蹟にあった古木の標柱は現在ほとんど文字が消えている上に、蜂様がいたのでよく読めませんでしたが「国指定史跡弘前城跡新寺構」と書いてあるようでした。
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第三代藩主信義は僧京海のために正保4年(1647年)溜池南東台地上に大円寺を再興し、また、慶安3年(1650・慶安2年の寺町大火の1年後)には城の南方にあった15の寺院を移転させ、現在の新寺町を構築し、更にこの付近の防御を固めました。
八坂神社境内より新寺構を望む(下写真)。
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新寺構から弘前市街を望む(下写真)。結構景色がいいです。
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新寺構から五重塔を望む(下写真)。大円寺(※現最勝院。神仏分離以前まで大円寺)五重塔は城の南を見守る監視塔の役割。
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下から新寺構の高低差を感じてみる。かなり高さがありますね。この高低差は辻坂の勾配に置き換えることができましょう。
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お得意の昭和10年地図登場(笑)
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住宅、割烹、産婦人科などが建設されていますね。現在は立入禁止ですが…
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その痕跡は見てとれます。
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さて、こちらの古地図を見てください。
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新寺構は辻坂の向こうまで続いており、その端から桶屋町を通って鍛治町方面へと川が流れていますね。昭和10年地図では川こそありませんが、辻坂上の右角に小さく「南塘」の文字が残っています。
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現在のこの位置。
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この川は桶屋町を縦断するかのように流れ…
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現在の「南国食堂 Shan2」付近にて暗渠となっています。念のために「南国食堂 Shan2」さんに「昔は南塘食堂 Shan2でしたか?」と確認したところ、最初から南国食堂であったとの大変貴重な回答が得られました。
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冗談はさておき、川につきましては、もう一つ気になることがありましたので、いずれまた記事にしたいと思います。
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