午砲台之跡(文京町)の記事でも少し言及した時鐘です。
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正確な時を告げるものがなかった昔、お寺で撞く鐘の音が時刻の目安でした。
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弘前では1665(寛文5)年4代藩主信政の代から鐘を鳴らすようになりました。初め藩が費用を出していましたが、後に武士・町人・寺社が共同で負担していたそうです。
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弘前城追手門近くに茂森山(現・森町)という山がありました。城郭より高く城を見下ろす場所であったため、築城の際に削平されましたが、現在でも旧市内では一番の高台であるこの場所に「時鐘楼」が建てられ、城下一円に時を告げ、長い間「森町の鐘」として人々に親しまれていたんですね。
現在の跡地の通りもよく見ると小高い丘になっているのが高低差で見て取れます。
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裏手から見てみます。
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当時は建物も二階建であったため、火見番の機能も兼ねていました。
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昭和10年の古地図です。現在は森町と塩分町を繋ぐ一本道の途中にありますが当時は森町側のみの出入りだったんですね。
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住宅の庭の中に標柱が立っている状態なので、あまりジロジロ見ながら写真を撮っていたりするとちょっと怪しまれるかも知れません(笑)
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