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本町坂の標柱等は一切ありませんが、今でも本町坂という呼び名は広く浸透しております。昔は徒歩でも息が切れるほどの急勾配で、弘前市内で一番きつい坂道であったと言います。冬には子どもたちのスベリ坂でした。今は無理ですね。自動車が普及して交通が激しくなり、現在のように勾配の緩い坂道にされたそう。
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津軽弘前城之絵図によれば正保3(1646)年には既に町屋として町割り。
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慶安2(1649年)年には鍛治町として70軒以上の屋敷があり、うち53軒が鍛冶、五丁目南部は銅屋町とされ、銅屋19軒。
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万治2(1659)年に五丁目がすべてが銅屋町に。寛文13(1672)年には銅屋町が見られず、一丁目が鍛治町横町と記載。
延宝5(1677)年に一丁目が横鍛治町、二~四丁目は長鍛治町と変化し、五丁目は銅屋町。
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宝永2(1705)年、城下町割りによってエの字型の本町一~五丁目となります。
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以降、鍛冶・銅屋が現在の鍛治町・銅屋町に移転し、本町は職人町から商家街となりました。呼び名は本鍛冶町が略されるようになって本町へとなっていったのです。
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その後は大火事などで商家が消失。経営困難に陥りますが、弘前藩が本町以外での商売・販売を禁止する政策を打ち出し、活気を取り戻していきます。
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明治には弘前を代表する商家街となりますが、1907年以降は交通事情の変化や陸軍第八師団設置による人口増加、購買力の変化等の影響を受け、中心商店街の地位を土手町に譲り、本町は衰退を辿りました。
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上から見た本町坂。写真の右手、坂道のちょうど中間辺りに、今も遊郭らしきものがあるので、この角度でしか写真が撮れませんでした笑
江戸から昭和初期まで、本町坂は下町と上町のねぷたけんかの大舞台ともなっていたそうです。
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また、明治屋、小堀旅館、加藤塗料商会などいくつかの建物が現存しています。
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そういえば、今日からいよいよ弘前ねぷた祭りのスタートですね!!
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こちらは一昔前の本町坂下。
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そしてかなり昔の本町坂下。いずれも同じ場所です。
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