くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

東北地方の神社仏閣を中心に、歴史的建造物等々を適当に紹介しております٩(ˊᗜˋ*)و

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秋田県大館市十二所元館。
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手水舎。
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社務所。
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十二所神明社…『祭神:天照皇大御神他十一柱。社紋:藤に十二天。例祭:鎮火祭9月15日。由緒:当社は明治43年(1910)大森岱に鎮座せる伊勢神社及び十二所地域の二十社を、ここ旧十二天社に合祀し「村社神明社」として神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。のち太平洋戦争を経て新生日本の誕生を迎え、昭和21年10月「宗教法人十二所神明社」として発足いまに至る。そもそも十二天社は平安後期鎮守府将軍藤原秀衡の一族藤原肥後が当地に居城の折の建立と伝えられ、武家方鎮守として代々祭祀されてきた。一方、天正年中(1573-)源内沢にあった町方鎮守伊勢神社は城下町の移転(1616)や延宝7年(1679)の大火にて3度遷宮を重ね寛政6年(1794)から大森岱に鎮座されていた。この間、国政は明治維新の大変革を経て近代国家への道を歩み始めるが、同時に維新後奉祿を失った旧藩士の他出が相次ぎ十二天社の維持が次第に困難となり、ここに伊勢神社との合祀の止む無きに至るのである。このように起源や歴史的経緯の異なる諸神社が合祀されてきた当社は、草創以来幾多の変遷を重ねながら830有余年の長きに亘り、人々の大いなる崇敬をあつめて祭祀されてきたのである。』
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狛犬一対(安政5戊午年3月吉日)。
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かつての十二所村。浅利則頼侍分限帳写によりますと、十二所の住人十二所信濃守が稲3500刈を知行と記載。この知行刈高が十二所村に該当するかは不明。信濃守某は岡田与三郎といい、浅利家臣となり十二所を苗字の地として当地にて勢力を張りましたが、天正10年頃の秋田愛季と浅利則祐・勝頼との相克に巻き込まれ死没。代わって十二所城には湖東部五十目出身の愛季家臣平姓五城目兵庫が入城。それもつかの間、天正15-17年の湊合戦の際に湊(南部)方についた五城目兵庫が没落。天正19年1月17日豊臣秀吉が秋田実季に当知行を安堵した朱印状写では、十二所村・八木橋村471石余と記載。このうち十二所村分は慶長6年秋田家分限帳の187石前後。太閤検地前後に秋田実季は浅利頼平に当村を含む一帯を委ね、頼平はまた十二所信濃守の一族岡田七兵衛を頼平の家老三人衆の1人抜擢し十二所管轄を任せます。七兵衛も十二所氏を名乗りました。七兵衛は頼平の死後も秋田家から待遇されており、これには秋田家の南部対策が背景にあります。十二所城は集落背後の高台にあり堅固な構えを持っていました。慶長7年、佐竹氏は入部早々藩境の要地として十二所を重視し、家臣赤坂朝光に委ねます。七兵衛は十狐村に拠って佐竹勢入部反対の一揆勢を形成。その鎮撫後、南部藩との藩境交渉を進めながら、元和元年に塩谷義綱を十二所代官として翌年城を真山岱から元館町に移し町割を実施。十二所村から十二所町が正式に成立。元和6年幕命により城郭は破却し再来館を建設。代官を所預と称し、以後梅津氏・茂木氏と所預も交代しましたが、藩境の要地としての機能は一層強められました。鎮守十二天大社のほか、神明社、愛宕社などの神々を祀り、曹洞宗塩谷山長興寺、浄土真宗宝林山本光寺、真言宗明寿山長楽寺、浄土宗松月庵、修験自性院などが見えます。
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巨木に囲まれた石段を上ります。
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石段中間地点。
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参道脇に唐松神社があります。
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唐松神社石祠・石像。
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唐松神社とは逆側にある建物。
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蒼前神社かな。
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建物内。
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壊れた石仏と石灯籠。判別しにくいけど馬頭観世音かな。
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石段を上り終えると正面に石碑群。
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参道は左右に分かれ、左には忠魂碑、右に社殿。まずは社殿に。
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御祭神は天照大神、天之御中主神、大名持神、応神天皇、高皇産霊神、外七柱。例祭日は9月15日。
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奥州藤原氏が東北地方一帯を統治した嘉応から文治年間に至る12世紀の後期(平安末期)、時の鎮守府将軍藤原秀衡の一族、藤原肥後が当地方支配のため藤原岱に居城しましたが、その際に守護神として十二天神社が創建されたものと伝えます。爾来、十二所は戦国の世を経て幕末に至るまで浅利、秋田、佐竹各氏の支配を受けるところとなりましたが、十二天神社は、その時々の支配者の家臣により内町(武家方)鎮守として祭祀されてきました。
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一方、天正年中(1573-91)源内沢にあったと伝えられる伊勢神社は外町(町方)鎮守として祀られてきましたが、元和元年(1615)十二所代官として任ぜられた佐竹氏家臣塩谷伯耆守(しおのやほうきのかみ)が、翌2年十二所城を移築し、同時に侍屋敷の移住を行ったことにより、上町下川端に遷宮されました。その後、延宝7年(1679)3月22日の十二所大火により社殿類焼し、全町の屋敷割直しに伴って十二天社東方の並山に遷されましたが、更に寛政6年(1794)に至り下新町の西方山麓の大森岱に遷宮し、明治43年(1910)まで鎮座。
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明治維新後俸禄を失った多くの旧藩士は、生活の糧を求めて他出が相次ぎ、十二天神社の維持運営が次第に困難となり、明治43年大森岱に鎮座せる伊勢神社及び十二所地域の20社を十二天社に合祀し、神饌幣帛料供進神社の指定を受け「村社神明社」と改稱されました。第二次世界大戦を経て昭和21年10月に「宗教法人十二所神明社」として発足し今日に至ります。
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拝殿内。
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達筆過ぎて読めないですけど俳句かな。
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拝殿内両脇。
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ご神盃・御守り・社史・おみくじ売場。売ってないけど。
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社殿修復奉賛者御芳名(平成26年8月31日竣工)。
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石灯籠一対(平成28年9月吉日)。
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先程の石段正面の石塔群。
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豊受姫大神(大正15年5月)。
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山神宮。
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側面紀年銘元号判読できず。
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金毘羅大権現。
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弘化3年5月・行者剛海建立。
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二十三夜塔(弘化4年5月)。
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天満大自在天神。
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裏面碑文…『弘化四年丁未三月二十五日谷川原伊織建立の碑風化につき平成十四年十一月二十三日大館市十二所字上川代20-4伊織末裔谷川原勝弥建立』
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聖徳太子(大正10年4月8日・大工協同會)。
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天満大自在天神(弘化4年3月25日・谷川原伊織)。
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頌徳碑(牧野忠篤篆額)…『千葉勝美翁物故してより既に七星霜其在丗の偉業■として星斗の如く其功績の大なるにと敢て絮説を要せす即ち郷閭の同志相謀り茲に前森本縣知事の表彰辞■刻して以て翁か遺徳を不朽に傳ふ其辞に曰く 資性篤実風に産業の振興に鋭意し或は率先組合を組織して斯業の進歩発達を圖り或は製絲場を設けて絲質の改良統一に努むる等拮据經營多年一日の如く其功績顕著なる仍て茲に之を表彰す 大正12年8月』※くずし字苦手なので間違ってるかと思います。
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神厩舎。
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御神馬。
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社殿と向き合う忠魂碑。
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石灯籠一対(平成28年9月吉日)。
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中央の忠魂碑(十二所町遺族會一同・十二所町旧軍人會一同建立・昭和41年9月9日)。戊辰・日清・日露・大東亜戦までの勇士を合祀。
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両脇の忠魂碑。
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忠魂碑から見た十二所神明社社殿。
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岩手県二戸市金田一大釜。
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鳥居額束。
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拝殿向拝神額。
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拝殿内。正面に本殿。奉納幕紀年銘は昭和58年1月吉日。
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天狗がいました。
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白山神社の由耒…『【一.加賀の国大本山 白山本宮について】加賀の国(今の石川県)大本山白山本宮は「霊峯白山」のまつりの庭として「白山本宮」「白山一宮」と仰がれ白山比咩神社」の御鎮座は崇神天皇の七年と伝えられその後、大火により、旧鎮座地の古宮址の森から三宮鎮座の地である現在地に、御遷りになり後土御門天皇の文明十二年から数えて昭和五十五年が五百年にあたるといわれる。現在は加賀の国石川郷鶴耒町三宮に鎮座している。【二.白山神社 神紋の由耒について】神紋の名称は「三子持亀甲瓜花」と申します。この神紋は、六角の亀甲の形を七五三に配した三つ子持ち、即ち、三条の構を配し、その中に瓜の花を描いたもので、その意味は、亀甲は千寿万歳の長寿を卜し、三つ子持ち即ち三条の構えは父祖から子、子から孫へと過去、現在、未来に亘って絶えることない「家運長久の表現」であり瓜は古代における「珍菓」であり、これを神に捧げて子孫の繁栄を祈るという「神まつりの表現」であります。したがって「白山神社」は家運長久、子孫繁栄、神人和楽の神であります。【三.下平白山神社の鎮座】明治の初期、加賀の国から岡部昌庵という医師が金田一村「野月」の舘日野屋新兵衛方に転居し、その時持ち来った加賀の国白山神社の分神を此の野月に鎮座させたものと思われる。その後幾度か転居し、最終的には現在の森氏の家に住み死亡されている。現在の白山神社は、その後、八坂神社、秋葉墓地などを探し、だいぶ明確になって耒ました。百年以上の歴史をもっています。当白山神社の祭礼は毎年十月二日に定め礼拝致しております。【四.岡部家の家系と白山神社の歴史】初代岡部昌庵-明治十九年九月二十八日没。岡部マサ-明治二十七年七月九日没。二代岡部昌栄-昭和七年一月二十五日没。三代岡部安-昌庵の二男が昭和八年三月一日相続。その後の岡部家の消息は不明である。』
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青森県下北郡東通村岩屋田畑。袰部部落。
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地図で見ると野牛母衣部という地域名が見えます。「袰」は「母衣」なんでしょうね。袰部は川筋につくアイヌ語系のホロ・ペという本流を意味するとも、ポロベという大いなる水に由来するものとも云います。かつての岩屋村で地内に近世アイヌの洞窟・貝塚があるそうです。
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参道。
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社殿。やや変わった形をしています。
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社殿内。明和3年(1766)の再建。よって詳細は不明ではありますが少なくともそれ以前の創建です。嘉永7年からの棟札を5枚所蔵。明治3年再建、昭和14年増築・再興。御縁日は9月15日。
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地図には「八幡神社」とあるのですが、社殿内に「熊野大権現(袰部部落)御魂代鎮魂」ともあります。でも鳥居の額束は「袰部八幡宮」ですし、参道の橋は八幡橋だったので、やはり八幡神社でしょう。
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