くぐる鳥居は鬼ばかり

Buddhist temples and Shinto shrines.

東北地方の神社仏閣を中心に、歴史的建造物等々を適当に紹介しております٩(ˊᗜˋ*)و

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桝形(枡形)は旧城下町にある町のつくりでカギ型の場所です。
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桝形標柱(昭和37年創建・平成11年3月改建)より…『城下町に出入するけじめのところ。旅行者などをここまで出迎え、或いは見送ったと云う。』
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桝形には地蔵井戸と地蔵堂があります。少し南へ行った左手には一里塚(標柱)もあります。花輪の一里塚は盛岡夕顔瀬橋を起点とした鹿角街道沿いに設けられました。
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地蔵井戸。
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『旧関善酒店・おせど・小田島家住宅』並びに『万山さんの井戸(萬三稲荷の水場)』と同じ通り沿いになります。
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上段が飲用、下段が野菜や飲み物等の冷却、その余水が洗い物用。
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井戸の上に枡形(ますがた)の案内板がありました。『「花輪ばやし」祭典で10町内の屋台は、20日午前0時を期して「朝詰」のパレードが始まる。暗闇の中、最初に稲村橋に詰め、次に舟場から新田町の枡形に向う。ここで御旅所から神幸した御輿の前で、一台ずつの神事が行なわれる。枡形は、「城かしら」と呼ばれる城下町に見られる町のつくりで、敵が一気に攻められないようカギ形状になっていた。近くに地蔵様や庚申塚などが並ぶ一角があり町はずれを思わせる。枡形は、旅立ちの際の送り迎えをした'境むかえ'が行なわれた所でもある。』
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昭和40年代の新田町。
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地蔵堂は地蔵井戸のすぐ裏にあります。
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地蔵堂。
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地蔵尊。
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枡形から少しだけ一里塚方面に南下すると庚申塚があります。
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庚申塚。
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庚申塔(安永4乙未歳5月14日)。中々古いものでございます。
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金毘羅大権現(嘉永7甲寅年10月10日)。
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裏面には「町内安全」と彫られ、下部に願主名が見えます。
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石塔が三基。
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1つは庚申塔(甲子)。紀年銘は文政7甲申年。
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もう1つは唐松大権現。紀年銘は安政6己未歳8月吉辰。
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真ん中の碑は状態が悪くて読み取れませんでした。
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小祠があります。
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2躰祀られております。お顔は見えますが、布で判断できず。
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石祠。
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こちらは庚申塔のようです。紀年銘は大正。下部は同じく布で見えず。
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石祠自体の方が古く、紀年銘は明治42年12月。横には名前等が彫られています。
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26.5
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青森県十和田市三本木稲吉。
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曹洞宗高雲山観音寺。
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由緒等については公式HPがありますのでそちらも参照ください。
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曹洞宗高雲山観音寺縁由…『開山:村松幸榮。開基:苫米地眞宗。曹洞宗は、鎌倉時代に開祖永平寺開山高祖道元禅師が、釈迦の教えである正伝の佛法を中国から我が国に伝え、宗旨の根本を確立した。その宗旨は、歴代の祖師方によって受け継がれ、特に四代目総持寺開山太祖瑩山禅師によってあまねく日本国中に広められ、今日全国に1万5千余の寺院とおよそ1千万檀信徒を擁する我が国で最大の宗派となっている。曹洞宗では、一佛両祖即ち本尊のお釈迦様と両祖太師を敬い礼拝し、諸佛菩薩を信仰している。観音寺では、ご本尊に聖観世音菩薩をお祀りしている。観音菩薩は、佛教における代表的な「救世」の佛様であり、世の中総ての悩みを聞いてくれる無差別平等の救済力を持つ佛様である。両祖様は、共に観世音菩薩に深く帰命していたとされている。道元禅師は中国より還郷の時に観音菩薩によって守護された。瑩山禅師は出生の因縁など観音菩薩に相通じるものがあり、開基様はそのようなことを深く心に止められたのであろう。開基様は、寺院建立の縁由を著書に書き残している。「私は、5歳の時に母と祖母を亡くし、後の母も15歳の時に逝った。母や肉親への思慕の情は押さえようもなかった。昭和13年に、私は近衛歩兵第一聯隊に入隊した。南支那方面では多くの戦友の死傷に遭遇し、私も負傷して野戦病院に収容され、そんな中でもし生還できたら亡き母たちや幼くして逝った妹や、戦友たちの御霊を供養しようと心に誓った。今、寺院建立を決意して稲吉の台地に立ち、蒼々と広がる美田や躍進著しい街並みを眺望しながら、開祖新渡戸傳翁の慧眼に改めて畏敬の念を深くした。私は、稲吉の丘に寺院建立を発願し、その成就に余生を捧げる。」開基様は、寺院建立に不退転の決意をされ、開山五百十有余年の名刹、光明山高雲寺24世村松幸榮老師を開山大和尚として拝請し、本尊に聖観世音菩薩を祀り、高雲山観音寺を建立された。茲に、開山様と開基様の深いご慈悲と卓越した識見と、これに賛同し発願成就に献身された発起人各位の恩徳に感謝報恩の誠を捧げ、併せて、特段のご理解をもって浄財喜捨勧進にご協力を賜りました檀信徒各位の篤心を、観音寺歴史の序章として後世に記すものである。【発起人】村松幸榮、苫米地眞宗、竹ヶ原拓治、竹ヶ原正彦、佐々木陸奥男、小林正人、苫米地良助、小山田武信、小山田紀夫、久保田亥三郎、苫米地勇作、小山田常夫、栗山金雄、泉山徳治。【沿革(抄)】昭和61年1月25日本堂落慶式・入佛開眼供養・竣工祝賀会。昭和61年12月25日宗教法人「高雲山観音寺」設立。昭和62年9月30日観音寺二世住職前田憲良就任。平成9年1月17日10周年記念事業-位牌堂落慶式・檀信徒玄関、書院、庫裡他増改築。平成16年10月5日観音寺2世住職前田憲良、晋山・結制式。平成16年10月5日20周年記念事業-山門、鐘楼堂落慶式、記念碑建立、記念誌発刊。尚、この間に墓地拡張、境内整備、参道舗装、駐車場整備等聖苑構築。(以下、観音寺開創20周年記念事業実行委員名省略)維持平成16年10月5日。撰文:元十和田市立十和田中学校校長宮崎義久。』
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HPより一部抜粋…『新渡戸傳は、安政2年(1855)三本木原開墾に着手。最も困難を極めた奥入瀬川から三本木台地への上水は、安政6年5月4日遂に通水。傳の意志は息子十次郎へ受け継がれ京都の条里制にならい、道を碁盤の目状に配した近代都市基盤の構築。明治30年植民募集の計画を立て、最初の入植は福島県よりの25戸であった。この不毛の地と言われた原野、度重なる冷害・凶作、そして戦争。入植した人々の風俗習慣の違いと貧困。こうした中近隣の方々の保護・援助・指導・励ましを戴きながら、不撓不屈の精神でたゆまざる努力によって今日の繁栄を築くに至ったが、その三本木には昔より寺がなくずっと不便を強いられてきた。開基苫米地眞宗氏は、「私が5歳の時、母と祖母を亡くし、その後の母も15歳の時に逝った。母や肉親への思慕の情は抑えようもなかった。昭和13年に、私は近衛歩兵第一聯隊に入隊した。南支那方面では多くの戦友の死傷に遭遇し、私も負傷して野戦病院に収容され、そんな中でもし生還できたら亡き母たちや幼くして逝った妹や、戦友たちの御霊を供養しようと心に誓った。」と綴っている。寺院建立発起人委員会を立ち上げ多くの人達の努力の末、住職を五戸町高雲寺住職村松幸榮老師へお願いし。昭和60年12月20日に念願の宗教法人観音寺を設立。』
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本堂。
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聖観世音菩薩(維持平成16年1月18日・観音寺二世法濟憲良代建立)。
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鐘楼堂。
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梵鐘。
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ガラス越しですが…
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狛犬・灯篭一対。
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六地蔵。服が素敵です。
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曹洞宗魚籃山常現寺。八戸市小中野6丁目。御本尊は魚籃観音菩薩。近くには諏訪神社新むつ旅館があります。常現寺の詳細についてはHP(常現寺)を参照下さい。
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寛延元年、常現寺の前身である梅翁庵は、下北郡大畑村の曹洞宗円祥山大安寺三世寿仁州関大和尚により、宿庵として大畑村関根橋に開庵。当時の大畑村は長崎との交易やヒバ材に恵まれて大いに賑わっていましたが、明治初期には時世の推移とともに、梅翁庵は名号を残すのみとなって廃庵同様の状態となりました。明治26年頃、三戸郡小中野村(現八戸市小中野)には曹洞宗の寺院がなく、一方でお釈迦様の教化聴聞を願う心と寺院を求める声が高まっており、同村が経済の発展と共に曹洞宗信徒も増加していましたが、まだまだ新寺建立は困難な時代でした。そこで本寺大安寺と三戸郡大舘村(現八戸市新井田)の貴福山対泉院両寺互議の上、対泉院末庵として移転することになります。明治30年、寺院用地として現在地が寄進され、同12月に曹洞宗管長の認許を得ました。明治43年、寺籍移転の諸手続が完了し、八戸湊村出身の高僧西有穆山禅師(大本山總持寺独住三世直心浄国禅師)を開基とし、本寺貴福山対泉院18世上田(霊山)祖堂大和尚を開山とする新たな一宇が建立。こうして下北郡大畑村の梅翁庵は、開創より100年余の星霜を経て、新たに三戸郡小中野村に寺籍を移転し、交趾王山梅翁庵としてこの地で新しい歴史の一歩を踏み出すことになりました。
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青森県で初めて曹洞宗管長(最高位)に就いた八戸出身の名僧・西有穆山禅師は、文政4年、三戸郡湊村(現八戸市湊町)に誕生し幼名を万吉といいました。9歳の時に母方の菩提寺にて地獄極楽の掛図を見て発心、13歳で八戸長流寺金龍大和尚について得度し、僧名金英を授けられました。金龍和尚示寂後は仙台の古刹松音寺にて修行を続けながら漢籍仏書を読み尽くし、駒込の吉祥寺旃檀林門下生となります。愚禅和尚より「正法眼蔵」の提唱を受け、儒学者菊地竹庵に入門し研鑽に励みました。また、新宿宗参寺曹隆和尚を法幢師として立職し、浅草本然寺住職泰禅師に嗣法して大和尚の位に昇り、牛込の鳳林寺15世を嗣ぎました(23歳)。その後、住職の座を退きながらも修行を続け、小田原海蔵寺月潭老和尚のもと12年間宗乗を学び、更に「正法眼蔵」を参究。この時に金英から瑾英に改名。更に前橋市の竜海院の諸獄奕堂師(後に大本山總持寺独住1世)より印可証明を頂き、伊豆修禅寺梅苗門下に於いては公案中でも最も深遠な「劫下洞然」を参究会得するなど厳しい修行を続けました。その後、永平寺西堂、可睡斎住職、大本山總持寺独住3世、曹洞宗管長、明治天皇より勅特賜直心浄国禅師の号をいただく等々、数々の要職を務めてました。当寺が穆山禅師を開基とし魚籃山常現寺として開山した明治43年12月4日に従容として世寿90を以って示寂。横浜西有寺、八戸光龍寺等々を開山され、北海道中央寺と当寺常現寺二カ寺が禅師の開基となっています。
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大正4年、宮城県栗原郡宮野村にあり、法地格を持ちながら廃寺同様であった源昌山常現寺を、庵寺である梅翁庵を法地格にすべく、源昌山常現寺を再興する形で寺籍移転廃合の届出がされます。翌5年に山号も改められ、法地格を持つ寺として正式に魚籃山常現寺となりました。なお、梅翁庵の寺籍は岩手県宮古市鍬ケ崎に移り、挿鍬山梅翁寺として法灯が護られています。
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本堂寺号額「常現禅寺」(總持寺独住二十一世梅田信隆猊下揮毫)。
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常現寺魚籃観世音菩薩(パンフレットより)。西有穆山禅師は明治32年5月に故郷の小中野村に一寺が建立されると聞き及び、故郷の布教発展に資すべく、木彫「魚籃観世音菩薩」と鋳造「延命地蔵菩薩」と「秋葉三尺坊大士像(現在不詳)」を奉安。魚籃観世音は漁業繁栄や航海安全の信仰対象とされます。御本尊として民衆の信仰を集めたこの観音様は、その霊験著しさから「今あらた 新地をひらく 観世音現世安穏 後生極楽」(八戸城下三十三観音札所27番札所御詠歌)と詠まれたほどでした。毎年11月17日御開帳。また、延命地蔵尊は農業繁栄や先祖崇拝の信仰対象であり、享保5年の制作といわれ、静岡の修験秋葉山七世了運任宗上人によって開眼したと背部に刻書されています。明治の廃仏稀釈により秋葉寺が神社となり、この地蔵尊を安置していた源性庵(当時遠州)もその影響を受けて廃寺同様となってしまったことから売却・融解の運命にあったものを、西有穆山禅師が救って新たに入魂開眼されました。背面にはその由来・縁起が刻字されています。
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魚籃観音碑。
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上の篆書は幕末の書家・剣豪正四位山岡鐵太郎揮毫。本文文字は大本山永平寺62世鐵肝雪鴻禅師揮毫。魚籃観音についての由緒が刻まれています。西有穆山禅師の依頼により揮毫されたもの。明治17年刻書。
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わらべ地蔵尊。
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弘法大師御修行之尊像。
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南無阿弥陀仏供養碑。明治3年5月来迎寺19世燈誉上人が導師となり湊村念仏講中の人々によって建立。藩政時代に四ツ屋(谷)の仕置場(現小中野小学校)に首切地蔵(延命地蔵)と共にあったものを明治期に常現寺に移しました。首切地蔵は本堂入口の御堂に移安されています。なお、本堂入口左側の御堂には金精様が願いが叶う石と共に祀られています。この金精様はかつての遊女が小中野の一角にあったお堂(焼失)に奉納したものらしいです。
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和田清宣翁碑(大正9年5月)。明治5年から大正2年まで初代小中野村々長・村会議員・郡会議員を歴任した和田氏の徳望を顕彰したもの。
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