1
岩手県九戸郡九戸村長興寺第8地割。
2
九戸村は江刺家村・伊保内村・戸田村が合併して成立。軽米通江刺家名主組に属する長興寺村。寺社として曹洞宗長興寺、九戸神社、羽黒神社が見えます。
3
長興寺は永正元年(1504)開山の古刹で、九戸城主23代九戸右京信仲公開基となり(政実公の父九戸氏23代信仲の位牌が残されています)、24代政実公が居を構えた長興寺はかつてこの地域一体の文化の中心であるほか、九戸氏代々の菩提寺としても知られています。
4
境内にある村指定天然記念物の公孫樹(大イチョウ)は、政実公が出陣の時にお手植えしたものと伝えられています。
5
写真では伝わらないかも知れませんが結構な大きさです。
6
6.5
存在感が凄いです。
7
7.5
公孫樹…『周囲9.2m、高さ32.0m、枝張り23.0m。この大銀杏は雄株で、一説に九戸左近政実公が、出陣の際お手植されたと伝えられている。九戸村指定文化財、昭和44年8月29日指定』
8
案内板「鳳朝山長興寺」より…『曹洞宗、聖観世音を本尊としている。永正元年(1504)、金沢の宗徳寺大陰恵善和尚が奥州巡教の途中に、この地を治める九戸氏の求めに応じ創建開山したと伝えられ、一帯の文化の中心となった。九戸氏代々の菩提寺として雄大な堂塔伽藍があったが、元禄6年(1693)の山火事で焼失し、その後159年を経た嘉永5年(1852)に再建されている。本尊の聖観世音は鎌倉中期の作といわれ、文化財として注目されている。また、村指定有形文化財の不動明王が2体あり、境内の公孫樹は、村指定天然記念物となっている。』
9
山門前付近の石塔。禁葷酒門内と墓碑。
10
10.5
山門。
11
11.4
11.8
永正元年に九戸氏の招請によって、加賀の国、宋徳寺末寺、宋徳四世大陰恵善(だいいんけいぜん)大和尚が開山。四世永鷲大和尚が政実公に文武を教えたそうです。往時は格式の高い寺であり、末寺も有していましたが現在は2ヶ所とのこと。
12
御本尊は聖観世音菩薩。製作年代は詳らかでないものの、昭和34年の東北大学の調査結果により、鎌倉末期から南北朝時代のものと推定されています。同等の作品は県下にありません。また、所蔵する2体の不動明王は村指定の文化財となっています。平成に入ってから九戸家の墓を再建。
13
本堂。
14
本堂前の石。
15
本堂前の観音様(台座「無遮大悲」)と甘露之水碑「注甘露法雨 滅除煩悩焔」(※「注」は「樹」のサンズイ。「甘露の法雨を注ぎ煩悩の焔を滅除す」妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)。
16
16.5
十三重塔と小祠。
17
17.5
手水舎。
18
永代供養墓。
19
六地蔵。
20
十二支地蔵尊。
21
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥。
22
22.1
22.2
22.3
22.4
22.5
22.6
22.7
22.8
22.9
22.91
22.92
長興寺沿革碑(昭和43年5月吉日・當山廿八世天英一元代・三光二十二世月州光麟書)…『當寺は賀州宗徳寺末寺(現在弘前宗徳寺末寺)宗徳四世大陰恵善大和尚文亀二年開創し當寺開山となる九戸廿三代九戸右京信仲公開基となり廿四代政実公がこの地に居を構え長興寺を中心とした文化が九戸村發達史の源なり 南部三郎光行の子行連は(九戸氏の祖)九戸を與えられ廿四代九戸政実公覇を唱え大いに威名があった又當寺は九戸家代々の菩提所として相當格式の高い寺で末寺も花輪長年寺外数ヶ寺を有せしが現在は江刺家長徳寺伊保内圓通寺のみとなった 永禄三年政実公九戸村長興寺居城より二戸郡福岡町白鳥城へ移る同十二年政実公鹿角回復戰の功により二戸数郷氏加賜され後九戸城とよばれて注目されるに至った 天正十九年政実公乱を起し豊臣秀吉の六万五千の大軍と対戰し九月四日落城一族悉く滅亡後元禄七年二戸方面より延焼せる大山火事に依り伽藍及び記録の一切を灰燼に帰し現在は鎌倉末期から吉野時代の作品であるといわれる聖観音像政実公の父君の位牌及欄間樹齢約五百年の大銀杏を残し僅かに佛を止むるのみ 以后當寺五世祖誾大和尚六世越岸大和尚二代に渡り伽藍建立正徳元年八世日東雲永大和尚伽藍再建更に享保十一年山門建立嘉永五年廿四世雄翁祖英大和尚伽藍再建(現在の本堂)昭和丗四年茅葺屋根をトタン屋根に模様替え昭和丗五年五月予當寺に廿八世として入寺昭和丗七年七月山門改築完成昭和四十年四月本堂畳替し面目輕うじて保持すと雖も庫裡余りにも腐朽甚しく是が改築を望むの聲檀信徒の間に高まり漸く機運熟して昭和四十一年四月工事に着手し八月完成同四十二年四月落慶法要を営み因に晋山結制大法要厳修し茲に年久うして今日の威容を見るに至れり 而して八年間に渉る大工事完成を記念して六地藏を建立することを總代長坂本徳松發願主となり裏記三十五名の随喜協力を得て昭和四十三年五月建立し佛恩に報じ奉り檀徒各家先祖代々の為にし永く家門繁栄子孫長久諸縁吉慶を祈るもの也 一元誌』
23
九戸氏先祖代々之墓。花立に九曜紋。
24
石碑「九戸氏」より…『九戸氏代々は、鎌倉・室町の時代におけるこの九戸の地の領主である。九戸氏の始祖は、建久2年(1191)に糠部の地へ移り来て南部の祖となった甲斐源氏南部光行公の五男行連で、当地に居館を構え九戸氏を名乗った。現在でいう瀬月内川の流域一帯を封土としたらしく、当時の知行三千石だったという。以来、代々、400年間をこの地で経る九戸氏であるが、その間の系図、動向ともに多くが明らかでない。九戸氏が、周囲にぬきんでる勢力の兆しをみせはじめるのは第20代光政のころからのようである。余所に血縁を結ぶことで、九戸党とでも呼ぶべき勢力をも台頭させた九戸氏は、第23代信仲となり武威周囲に名だたるものとなっていた。永禄12年(1569)の鹿角奪回戦の功で二戸内数邑を加封された第24代政實は、まもなくその地宮野に九戸城を構えて移った。そのころの知行1万余石というも実力はそれに倍するものだったらしい。政實のその大きな力は、宗家との軋轢を生ぜしめ、ついには秀吉に差し向けられた中央大軍勢をも受けることとなる。十倍余を相手に要害を盾とし善戦するが、陰謀のためまもなく九戸城も落城、政實は遠く連行された三ノ迫の地で斬首される。天正19年秋、九戸氏は第24代にして終った。中野高田・坂本・上野・古軽米・江刺家の諸氏は、九戸氏が祖である。』
25
九戸氏略系図(中途に、不明のための欠落あり)。
26
にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 東北情報へ